Nocturne-紅い月-
第1楽章(4)香りは導く―the first part―

一点の曇り。
太陽と月が何度も入れ代わった。
けれど、少しずつ濃さを増すそれは大きな影となり。
やがて、空には月しか見えなくなって……。
やり場のない感情が、荒々しく風で揺れる木々に便乗するように体を突き動かす。
乱れ狂うようにステップを踏み出す足。
何処かで聞こえる狼の遠吠え。
カサカサと音を立てる草木。
荒かった息は次第に辺りと一体になり、その者が奏でる音は自我を持った生き物のように遊び出す。


そんな情景が見えた。
全体としては穏やかな曲だ。
しかし、その中に儚さと強く祈る感情が入り混じっているように聴こえた。


コレッリのラ・フォリア――


ジュースマイヤーはカーテンで閉められた窓の向こうから聴こえるヴァイオリンの音色に耳を傾けていた。
見なくても分かる、軽やかに運ばれる指の動き。
一体、誰がこの曲を弾いているのだろうか。
「ああ――。お目覚めでしたか? おはようございます」
客人より遅いとはこれは失礼をと、ここベルク教会のヴェルナ―司祭は近づいてきた。
「おはようございます。いえ、気になさらないでください。夜分遅くに訪れた私の方がご迷惑を……」
「ハッハッハッ――」
眉を下げたジュースマイヤーの顔を見て、ヴェルナ―司祭はその大柄な体型の通り、豪快に笑った。
「何を言いますか? 私があなたを呼び寄せたのですよ!」
ヴェルナ―司祭は窓に近づき、カーテンを開けると外の光に目を細めた。
「もしや……ヴァイオリンの音をお聴きでしたかな? フランツさん」
「あっ……あーはい」
目を丸くしたジュースマイヤーに笑顔をヴェルナ―司祭は向けた。
「初見の方に馴れ馴れしく呼びすぎでしたかな?司祭となると多くの方と接するうえ、
名前を覚えるのが大変でしてね。少し長い名前は愛称呼びしてしまうのですよ。
あっ……でも、あなたの場合は愛称にもなっていませんな。御嫌でしたら、普通にお呼びしますが……」
久しぶりに自分を姓ではなく名前で呼ばれたことに、ジュースマイヤーは”我が家に戻ってきた”
そんな気さえした。
「いえ……その方が私も気兼ねなく話せそうなので、そのままで結構です」
師はともかく、クラウスでさえ、僕の名を姓で呼んでいた。
少年の頃、家を出てから既に10年は過ぎている。
記憶を思い返してみても、一人を除いて、自分の名で呼んだ人物の顔が浮かぶことはなかった。
『フランツ――』
優しい笑みと眼差しを向ける女性。
僕と同じ黒髪は光を通して、淡く赤みを帯びる。
そして、瞳は琥珀のように奥まで透かして見えそうな気がした。
不意に過ったのはもっと昔の幼い自分を呼ぶ母の面影――。
胸に広がる懐かしさを押し返すように、ジュースマイヤーは一度、目を閉じ、司祭の方を向いた。
「それより、あのヴァ……「教会前のヴァイオリン弾き――」」
ジュースマイヤーが窓の方へ顔を向ければ、司祭は分かったように言葉を遮った。
「彼女はそう言われています。朝、夕とほぼ毎日、あそこで弾いているのですよ」
教会前といっても、ここは少し長い階段を上った所にある教会だった。
昨晩、痛い腰を庇うように這って上がった自分の姿が一瞬過った。
階段の先の道を隔てた所に立っている”彼女”の姿は小さい。
とはいっても、その姿は黒いフード付きケープを頭からスッポリと被っているのものだから、
司祭から聞かされなければ、女性かさえも分からなかった。
まぁ、なんとなくシルエットで分からなくもないが……。
それにしても――。
「上手ですね。どこかの師についているのでしょうか? 」
「気になりますか? まぁ、この国……いや、どの国においても音楽が嫌いな者などいませんな。
ましてや、フランツさんは作曲家。気にならないはずがありませんか――」
相変わらずの笑みを顔にのせた司祭は振り向き、一拍の間。
「知らないのですよ」
そう切り出した司祭は再び続けた。
「”彼女”であるということ以外何も――。
もう、長いことあの調子で、教会に足を踏み入れようとしないのです。
一時期、あの人物が誰かと町中、噂になることもありましたが、誰とも会話せず、姿を消すのも早い。
だからと言って、何か悪いことをしているわけでもないし、余計な詮索をしないのがこの世の常。
いつの間にか、それが皆の日常の一部となったのでしょう」
演奏が終わり、彼女が教会に向け、一礼して去る姿が窓から見えた。
ちらほら、拍手も起きている。
司祭はチラリと一度窓に視線を移した。
「つい最近なのですよ。私が”彼女”だと知ったことも……」

グ~~

ジュースマイヤーはお腹に手を当て、苦笑いを浮かべる。
司祭は点になっていた目を数回瞬きし、笑みの薄くなった顔をハッキリさせるように口の弧を強くした。
「ハッハッ――。長話しすぎましたな。朝食にしましょう」







コツッ コツッ――


静寂の中、靴音だけが響いていた。
暗くてヒンヤリとした空気が占める割合は地下に進む程、濃さを増しているようで、
肺から体全体に広がる冷たさに、ジュースマイヤーは小さく身震いした。
墓地に来て、墓の基盤ともいえる魂なき肉体との距離に遠いなどと考える日が来るとは思いもよらなかった。
通常、墓の主は埋葬されれば、土の下――会うことなど、ままならない。
ただ、貴族やお金のある家なら立派な墓を建てる。
まるで家のような――。
彼は後者だったのだろう。
結婚して、紅茶製造を生業としていると、何時だかの手紙に書いてあったことを思い出した。
クラウスはこの土地で成功していたということか。
音楽時代の容姿で止まったままの記憶は、彼が多くの者を率いて働く姿をぼんやりとしか浮かばせなかった。
こういう形での再会は複雑としか言いようがない。
正直、今現在でさえ、本当にクラウスが死んだのかという疑念で心は一杯なのだから。
「あちらです」
ジュースマイヤーが階段の最後の一段を降り立った時、前方からの声が四方を取り囲む石の壁で反響した。
先導していた司祭が振り返り、手元のランプを奥の方へ向けている。
黒塗りの五角形をした横長の箱がぼんやりと姿を見せていた。
人一人が入るには十分なそれと、そこに寄り添うように床に立てかけられた紫や緑、ピンクといった
色とりどりの花で作られた花のリース。
この暗さの中で一点だけ華やんでいる様は棺に伏せて誰かが泣き続けているようでドクンッと心臓が一跳ねした。
手に触れた棺は硬く冷たい。
石の蓋、上中央部には十字架、上の蓋と下の入れ物の接点である縁には共に細かな模様が彫刻されてた。
「フランツさん……会ってあげてください」
横に立つ司祭が声を発したと同時に、棺の重さを語る様にギギギーと音を立て、蓋は奥へ押し開かれた。
棺の蓋が除かれても暗かった中の様子は、墓地内に設置された壁のランプに司祭が火を灯したことにより、
やがて姿を露わにする。
目を瞑り、手を胸で組む白銀の髪の人物――。
3年前は短かった髪は肩に着く程伸び、後ろで軽く一つに結われていた。
足にピッタリと着く形状の長ズボンは黒、同じく黒のベスト、丈の長いジャケットは細かな刺繍で飾られ、
見るからに上等と感じられる生地を纏った装いは正装だろう。
暫く会わない間に青年から男性へと変わった彼がそこに横たわっていた。

「クラウス――」

ジュースマイヤーがポツリと零すように発した彼の名は小さく反響し、空間に消えて行く。
次第にこれが現実であることを実感して行く心が、目に溜まる涙と変わっていくのが自分でも分かった。
そっと触れたクラウスの手はやはり今方、触れた棺の石のように冷たく、硬い。
左手の指にタコを感じ、未だチェロは続けていたのかと覗き見た彼の顔に
ジュースマイヤーの零れそうになった涙が引っ込んだ。
蒼白、落ちて輪郭の窪んだ顔は死体の特徴的な様子なのだろう。
だが、その中でさえ、顔の筋肉が引き攣(つ)って見える。
まるで、何か恐ろしいものでも見たかのように――。
一瞬、クラウスが目を大きく見開き、あの深緑色の瞳に黒い影が映り込む様子が頭の中に浮かんだ。
「ヴェルナ―司祭……、クラウスはどうして亡くなったのですか?」
後ろで佇んでいたヴェルナ―司祭は一歩前へ出て、ジュースマイヤーの顔を覗き込むように横に並んだ。
「気づかれましたか?」
司祭の視線も厭わず横たわるクラウスへと目を向けるジュースマイヤーに何かを感じとったのか、
司祭もまた、ジュースマイヤー同様、クラウスへ視線を落とすと、一呼吸して口を開いた。
「そこなのですよ。貴方をお呼びした理由も……。まあ、何ら接点のない貴方と私を結び付けたのは彼ですが……」