Nocturne-紅い月-
第1楽章(5)香りは導く―the latter part―

||
「消えろ、消えろ……消え……」

告解室に設置された小窓を開ければ、髪を掻き乱し、鼻を覆うように両手を当て、俯く男が目に入った。
とは言っても、木の格子越しだからはっきりと見えたわけではないが、一瞬こちらに向けられた深緑の瞳と
白銀のその髪色にヴェルナ―はある人物の名が頭を過る。
「告白、に来たわけではありませんな」
目の前の男の様子から躊躇しながらも、発した言葉は彼の名ではない。
今日、近隣の教会から別の司祭が来る予定がなければ、こんな早朝。
告解の時間なはずはないのだ。
だからといって、確実に告白に来たわけではないと言いきれない以上、特定の者の名を名のるのは
告解室で聞く立場である自分にとって得策ではない。
迂闊に告白者の名を名乗れば、告白するものの気が削がれかねないのだから。
ヴェルナーは朝方ーー今もそうだが、外で物音がした気がして、まだ眠りから覚めない頭のまま、
居住スペースである自室窓から外をを覗いたのを思い出した。
外の様子は暗くてあまりはっきりとは見えなかったが、闇が僅に濃い一点の塊あるようだった。
目を凝らして見ていれば、それはゆっくりと聖堂の入口へ近づき、間も無く扉の中へと消えて行った。
誰かが祈りに来たのだろう。
ヴェルナーはそう思った。
人目が気になり、祈るに祈れない時もある。
滅多にないが偶に来るそういった信者だと思っていたのだ。
だが、来た気配はあるのに、出て行く気配は一向にない。
寝付けなくなって、出来てしまった暇を埋めようと、読んでいた本からヴェルナーは頭を上げた。
再び覗いた窓の外には、先程と同じく輝き続ける星々とは対照的に、黒から藍へ変わるように
薄っすらと明るみを帯び始めた空があった。
あれから結構な時間が過ぎましたな。
ヴェルナーは寒さを感じ始めたこの時期であったことを少し恨みつつ、本を閉じると部屋を後にしたのだ。


「司祭……」

消えてしまいそうな程弱い、自分を呼ぶ声に、男の顔を覗き込めば、その瞳は何処とも分からない場所へ向け、
宙を彷徨っている。
ヴェルナーは一瞬、眉を顰めるが何時ものように顔に笑みを貼り付けた。
「どうしましたかな? 」
ヴェルナーが声を発したと共に、定まる男の目線。
ガタッ
「クラウスです!司祭!私「ええ……」」
突然、声を張り上げたと同時に前のめりになるクラウス。
それに動じる事なく、ヴェルナーは一層近づいたクラウスの顔に目を細めた。
この男は――
「分かっていますよ。クラウスさん」
本当に綺麗な顔立ちをしている。
目の下には薄っすらと隈が見え、少し冴えない顔色に、動揺を隠しきれないのか瞳孔が開いてさえ見える瞳。
疲れきった顔をして、しているからこそ、良い意味で惹きつける何かを持つ、その端正な顔にヴェルナーは
"ほぉー"と心の中で男ながらに溜息をついた。
場違いな事を考えているのは、十分承知だ。
ただ、これが初めてではないのだ、この男の場合……。
以前もこんな風にして、重たいものを抱えていた。
否、以前にも増して酷いのか……。
「私……です」
クラウスはヴェルナーとの境になっていた木の格子に掛けていた両手の指をゆっくりと離すと、
力なくストンッと椅子に座った。
「赦しを……乞いに来たのではないので、いいでしょう……」
クラウスは俯き、また鼻を手で覆う素振りを見せる。
「司……祭……」
動揺めいた感情を思い出したのか、クラウスの声音が静寂な室内の空気を震わした。
「怖……いのです」
間もなく、あからさまな恐れを零すクラウス。
同時に、目前の机上で握り締めたままの左手がカタカタと震えだす。
「き……消えない……。 強まる一方で、呑み込まれそうで……消えそうで! 」
声を荒げたクラウスは頭を上げると、ヴェルナーの方へ真っ直ぐと顔を向けた。
ヴェルナーは細めていた目を更に細め、一呼吸する。
「もしや……あなたのよく言う"香り"のことですかな? 」
ヴェルナーの声に反応するように、机の隅に置かれた蝋燭の炎が大きく揺れ、
クラウスの瞳の揺れを激しく見せた。

―――――――――――――――――――――
―――――――――――

こんなに苦戦をしいられるとは思っていなかった。
まだまだ、コーヒーが主流で紅茶という飲み物自体が多くの人に知れ渡っているわけではない。
現に、紅茶のみを扱うハウスなどはなく、コーヒーハウスで紅茶を扱う程度。
どうしたら、紅茶を多くの人に理解してもらえるのだろうか。
細長い板を中央上部に掲げたあるドアの前でクラウスは立ち止まった。
指で触れれば、ゴツゴツとした凹凸が刻まれた文字を教え、冷たさと重みが全身を走った気がした。
金属でできているせいか?
それとも、理由もなく、何でもできると有頂天になっている自分が、一瞬現実を垣間見たからか?
前にあるのは"ロッシュの紅茶工房"と刻まれた"ただ"の看板だ。
「有難うございました! 」
発せられた声に反射するようにクラウスは隣の家を見た。
"ロッシュの紅茶"
そう書かれた飾り看板の下を雑談を交えて、客だろう紳士と共に淑女が出てくる。
満ち足りた幸福感をたたえて。
ああ、そのどちらもなのだろう。
初心を思い出せ、そう誰かに言われている気がした。
私が目指すものはまだまだ、この先だ――。
削れ掛けていた顔が真剣味を帯びると、クラウスは深くかぶっていた帽子を手に取りながら、ドアを開いた。
「クラウスさん! どうでしたか? 」
待ち構えていたかのように、声を掛けた青年は期待と困惑が混じった顔をクラウスに向けた。
それに……。
「社長へのお迎えの挨拶もなしに失礼でしょ! 」
山積みされた麻袋の後ろから、駆けるようにやってきた女性はスカートが乱れるのも厭(いと)わず、
青年の前へ立つと、小突いて注意を促す。
「お帰りなさい」
イテッと言う青年の声を後ろに振り返った女性は笑みをのせ、お辞儀した。
「あっ……そうでした。ご無事で何よりです」
その声が合図のように、入口の騒がしさから集まってきた人々が迎えの言葉を口にした。
「帰られたか」
「お帰り、旦那! 」
「お帰りなさいーー 」
クラウスは辺りを見渡すと、帽子で顔を隠すように顔に当て、肩を揺らした。
クックック……
それに、私には同じ考えの元、募ってくれた仲間がこんなにもいる。
彼らのためにも、怯んでいる場合ではない。
「クラウスさん? どうされ「いや……」」
青年の言葉を押し切るように、クラウスは帽子から顔を覗かせると、自笑の笑みを薄っすら残したまま、
咳払いを一つした。
「……何でもないよ」
クラウスは再び、皆を見据え、口を開く。
「隣町でも数件、一時的だが置いてもらえる所を見つけた」
その声と共に、小さな歓声があがる。
「全て、来月から3ヶ月だ」
「試用期間ってことですね」
青年が真剣な眼差しで問う。
「あぁ。詳細は後で話すが、この期間の売れ行き次第で今後も置いてもらえることになるだろう。
皆も慎んで作業にあたって欲しい」
解散と言わずとも、了解の意を表すように、頷いたり、片手を上げたりしながら、
元いた場所へちりちりとなって行く皆を見据え、クラウスは青年を小突いた女性に顔を向けた。
「ヴィルマ。それで、ミックスとブレンドについて、相談したいからアーベルを呼んでくれないかな 」
「ええ、分かりました。ですが……クラウス」
そう言って、一息ついたヴェルマは和かな笑みを顔に貼り付け、言葉を続けた。
「戻られたばかりで、お疲れでしょう。休憩をとってからになされては? 」
クラウスは歩み出していた足を止め、考えるように上に掛かった時計を見た。
口煩い彼女のことだ。
これで強行すれば、当分の間、ガミガミ言われかねない。
何と言っても、前例があるからな……。
自分がブレンドの研究に夢中になってしまったあの日の事を思い出した。
「じゃあ……4時頃来るように伝えてくれ! まずは、休憩するよ」
「はい! 」
ヴェルマの喜びに満ちた声に、クラウスは安堵と共に口角が上がるのが自分でも分かった。
「どうぞ」
ヴィルマは囁くようにそっと声を発した。
カチャンッと机に置かれたティーカップからは紅茶の香りが漂う。
クラウスは閉じていた目を開け、窓辺に向けた椅子にもたれたまま、まだ青い空を進む雲を目で追った。
「ありがとう」
「あっ……」
去ろうと背中を見せていたヴィルマの驚いた声に、クラウスは鼻で笑う。
「てっきり、寝ていらっしゃったのかと……」
「寝てないよ。……それは? 」
クラウスはヴィルマの手に持った書類へ視線を向ける。
「あっこれは、会計報告書です」
「前月分? 」
「ええ、9月分のになりますが……」
「少し目を通しておくから、報告書だけそこに置いて行って。詳細は後で聞くよ」
そう言いながら、感じる違和感にクラウスは湯気を上げるティーカップへ目を向ける。
……。
「いかがなさいました? 」
「いや……」
クラウスは手に取ったティーカップを鼻に近づけた。
次第に濃さを増す香りを堪能するように瞳を閉じ、大きく吸い込む。
その瞬間、確信に変わった違和感。
やっぱりだ。
クラウスは眉を寄せ、目を開けた。
薄い――。
この時期の紅茶は濃くて、渋いのが特徴。
カップの中の液体は透き通るような金色に輝き、白い花びらが僅かに踊っている。
ストレートではないことは明らかだ。
工房入口に山済みにされた麻袋が頭を過る。
いつもだったら、原茶入荷日にいれる紅茶は決まって、その日に入荷した茶葉を使う。
今日は入荷日ではなかったのか?
「アーベルさんですよ」
ヴィルマは口に手を当て、何かを思い出したのかクスクスと声を漏らした。
「来春、出すのにどうかと奮闘してます。まだ、試作段階のようですが、何かが足りないと壁に頭をぶつけて、
一人彼の世界に行きそうになっていたので。他者の意見を聞いた方がいいのでは? と提案したんです」
「確かに、そのまま放っておいたら、血を見ただろうな。アーベルは……」
アーベルは才能があるのに、考え過ぎることが玉に瑕(きず)だ。
晴れ晴れとした顔の時はいつだって、何処かしらに傷を作っている。
そこまで自分を追い込む必要などないと思うが。
ある意味、己に厳しすぎるとも考えられるか。
もう少し、甘くすべきだと……。
「んっ……」
甘い――。
口に含んだ紅茶からは、舌で感じるより先に鼻で感じた甘さが濃さを増すように漂う。
ただ、しつこい甘さではなく、何処か品のある甘さ……。
「優雅…… 」
それに、この香り――。
ヴィルマは僅かに目を見開いたクラウスへ補足するように口を開く。
「ヒヤシンスだそうです。春にはピッタリですよね」
ヒヤシンス――。
そうだ……。

『君に似てると思ったら、違ったみたいだ』

『何よ! 私はいい匂いがしないってことかしら? 』

どうして、忘れていたんだ?
「似ている……」
ガタッと音をたて立ち上がったクラウスは呆然と前を見つめた。
違う……そのものだ!
ハッとした表情に変わった途端、クラウスはヴィルマの横を通り過ぎて行く。
「クラウス? どうし……」
バタンッ
ヴィルマの呼び声はクラウスの耳へ届かなかったのか、ドアが閉まる音だけが響いた。
一人残されたヴィルマは唖然とした表情のまま、立ち尽くす。
「えっ……何? どういうこと? 」
ヴィルマの言葉に当然、返事はない。
そんな虚しい呟きを回収するように、しばらくして、クラウスの机上からカタンッと何かが音を立てて落ちた。
床に転がるそれを前に、ヴィルマの体を支配していくのは胸騒ぎのようなざわめき。
手にした写真立てには一枚の写真が飾ってあった。
クラウスとその横に寄り添うように佇む金の髪の女性。
クラウスと共に微笑んでいるであろうその顔は丁度、硝子のひびが入っていて見えない。
でも、頭に浮かぶのは美しく微笑むその女性の顔ーー。
優しく自分に話しかける声――。

『ヴィルマ、いつも有難う』

「クラウス―― 」

ヴィルマの心配に満ちた声は室内に消えて行った。






太陽は最後の灯火とでも言うように、地平線に手を掛け、今日で一番の光を放ちながら、
上から迫る闇に抵抗していた。
赤色帯びた空は地上に突き出た石や建造物を取り囲み、同じく赤色に染め上げている。
広い範囲を大小の加工された石が点在するこの場所は陽が落ち始めると、訪れる者は殆どいない。
「ハァハァ……」
そんな場所に息を切らしながら、もつれそうな足取りでふらりと進む影が一つ。
比較的大きな石の建造物の前で立ち止まったそれは落ち迫る陽を浴びて、
自身の髪を赤に染め上げたクラウスだった。
乱れた息を整えようと両膝に手を付き、俯く彼の肩は今だ上下運動が激しい。
「き……みだ……君の匂いだ」
唾を一つ飲み込むと、息苦しさからか歪んだ表情のまま頭を上げた。
"ロッシュ家"
扉沿いの壁に所々、刻まれた模様と一体化するように彫られた家名もまた、熱を含んだ赤い光を浴びて、
小さく記され名だと言うのに、一際目立っているように感じた。
一言で言えば、"幸福" 。
そうでなければ、隙間を埋めるような、満ち足りた……いや、それ以上の何か。
ここ最近、 自分の周りを取り囲む香りは強くそんな色を放っていた。
素直に受け入れても悪いものではないのかもしれない。
さざめき――。
時折、感じる香りの淀みは私を躊躇させるには十分だった。
経験上、こんな感覚は初めてだったから。
何事にも原因があって結果が起るもの。
知っているはずなのに何処か違うそれ。
記憶を遡っても、別段通常と変わった行動をとった覚えはない。
いつの間にか、纏わり付いていたという表現が正しい香り。
それがまさか――。
クラウスは辺りを見回した。
墓々は赤焼けし、伸びた影たちは、存在を露わにし出した闇に呑み込まれ始めていた。
きっと……いや、最終的に行き着く場所はここしかないと薄々、気づいていた。
しかし、足が重くて向けられなかったのは、奥に押しやった悲しみが溢れでて来そうだったからかもしれない。
感じたいのは……。
彼女の笑って紅潮する頬の暖かさ。
彼女と繋いだ手の感触。
彼女の吐息――。
ここには真実もなければ、何も自分を待つものなどない。
あるとすれば、彼女の残り香――。
「知ってどうなる……」
それでも……。
「ハンネ――」
クラウスは家名の下に刻まれた名"ハンネローレ" を目にし、顔を悲痛に歪めた。
彼女がここに眠っているのは事実。
でも、全てではない――。

ク……ウス――。

日中の香りを含んだ生温い空気が、冷え始めた空間を横切った。
クラウスの乱れ、頬に垂れた髪を僅かに揺らす。
扉に伸ばしかけた手は届くことなく、空気を掴んだ。
そこから広がるあの香り。
体は後ろに引かれ、背中から何かに包まれる感覚。
腰に回った手は先に吹き付けた空気のように生温く、背中へ向かうにつれ、氷のように冷たい。
寒さに支配されていく中、クラウスを抱きしめるその血色のない蒼白い腕
――左手薬指に輝く指輪に目がいった。
目頭が熱くなる。
「ハンネ……なんだね? 」
腕に触れようと伸ばした手は再び、空を掴んだだけ。
腰にあったはずの腕は色のついた気体であったかのように、ゆらりと揺らいで空気に溶け込んでいった。
背中からの寒さが消えると共に、広がるあの香り。
ザァーと音を立てて、後ろから吹き付けた風は今までにない濃さの香りを運んだ。
ヒヤシンスに似た彼女の香りを――。
「ハンネ! 」
クラウスは目を見開き、振り返った。
空気が流れていた。
数枚の花弁がはらりと舞う。
眩しい程の夕陽に照らされ、赤焼けする一面。
その中で、満開の花を帯びた一本の木が、存在感を放っていた。
サーッ
風が流れる。
小刻みに揺れ続けていた木の花々が、カサカサと音を発しながら、少し大きく揺れた。
木の下でふわりと何かが波打つ。
浮かぶ女性のシルエット。
波打ち、舞い上がったそれは、きっとスカートだろう。
女性の頭は木の花々に邪魔され、見えない。
けれど、クラウスには見えた、気がした。
「ハンネ……」
呟いた言葉にやはり、答えは返ってこない。
声が届いていないとか、そういうことではない。
答えられない何かがある。
クラウスの頭を過るのは確信に近いもの。
現に、踏み出そうとした足は弾かれるように後戻りを繰り返し、結局、元居た位置から一歩も動けずにいた。
もう会うことは叶わないと知った彼女が目の前にいる。
触れたい。
抱きしめたい。
クラウスは何も出来ない自分への悔しさに片手を強く握り締めた。
見ていることしかできないなんて――。
女性は木の幹に沿うように上を見上げた。
花を選び取るように枝に触れては離れるをリズミカルに繰り返す、その細くて長い指にある指輪が時折、
チカチカと陽に反射する。
「んっ」
何度目かの反射に眩しさを覚え、クラウスは目を強く閉じた。
閉じたことで一層、強く感じる空気。
小さく流れ続けるそれに含まれた甘さが強まった気がした。
パタパタ――。
そして、聞こえ始めた空気を切る音。
辺りを覆う花の華やかな甘い香りが揺らぐ。
クラウスは落ち着いた眩しさに目を開けた。
見えたのは木の下で踊る一匹の蝶。
蝶へ目を向けた女性は手折った枝を鼻へと近づける。
そして、その先端に付いた花の香りを嗅ぐように小さく息を吸い込んだ。
閉じ行く瞼。
重なる瞳。
木の枝の隙間から見えたガラスのように透き通った茶色の瞳をクラウスへ向け、彼女はその瞼を
完全に閉ざした。
途端――。
羽音が強まる。
隣の蝶が扇いだ空気をその隣の蝶が扇ぎ、ガサガサとうるさい音が響いた。
枝の隙間に無数の蝶を確認して直ぐ、女性の手だった部分が蝶になっていることに気づく。
辺りを覆う穏やかな空気とは逆にクラウスの中を冷たい空気が流れた気がした。
手から胴、脚へ。
重なり合う羽音を増しながら、彼女は瞬く間に消えて行った。
残ったのは人型を維持しままの無数の蝶。
服の合間から覗く手足が蝶の群集という異様な光景に、クラウスはここに来て初めて後退りたいと思った。
それでも動かない足に少しの緊張感が走る。
ゆっくりと、着実にクラウスの方へ頭を向ける目前の人型。
息を飲んだその時――。
ザーッ
再び吹いた風。
横殴りの風は蝶を乱した。
陽で赤く染まる一帯をそれよりも濃い赤を帯びた蝶が一斉に舞い上がる。
それを追うように彼女の纏っていた服も何処かへと舞って行く。
その何処か幻想的とも思える光景にクラウスの緊張感が薄れ始めたその時、蝶と共にピンク色の花弁が
舞っているのに気がついた。
前方を見れば、花弁をつけた木がガサガサと風で揺れている。
辺りを漂う花の甘い香り。
ヒヤシンスに似たそれはこれだ。
花弁の大きさ、形状、共にヒヤシンスとは似ても似つかない。
ましてや、木に咲く時点で違うのは明らか。
では、この花はいったい――。
「えっ!? 」
花弁に触れようと手を伸ばした矢先だった。
触れたのは蝶。
花弁はその後ろをひらりと落ちていく。
再び広がる緊張感に心臓が激しく、打ち付けた。
恐怖からか動かなかった手を無理やり振るう。
「ど……」
"どこに? "そう言おうとした言葉は全て発せられることはなく、クラウスは目を見開き、辺りをを見渡した。
触れた蝶は手を振るう前から、既にいなかったのだ。
「うっ……」
クラウスは急に感じた腹部のムカつきに、前屈みなった。
上に上がる違和感に首に手を当てる。
「……ゴホッ」
咳き込んだ瞬間、パタパタという音にクラウスは尻もちを付くように地に座り込んでしまった。
宙に浮かぶ濃い赤を羽に宿した蝶は、鱗粉を撒き散らしながら、上空の仲間の元へと飛んで行く。
さっきまで感じていた気持ち悪さは消え、消えたはずの蝶の出現。
嫌な予感が頭を過る。
口を拭えば、手に残ったのは白い粉。
宙を舞っていた鱗粉を彷彿させるそれにクラウスの思考は停止寸前だった。
ただ、急に強まった花の香りにだけ意識が行く。
パタパタ――。
気づけば、手は消えていた。
代わりに蝶が一匹、二匹と体を這い上がるように増えていく。
そして、消えていく体。
痛みはない。
やけに、冷静な自分にクラウスは気でも違ったのだと思った。
次第に強まる花の香り。
自分の香りを覆い尽くすようなものではなく、呑み込み、その花のものに変換するような香り。
通常はあり得ないのだ。
人の根本の香りを変えるなど……。
朦朧とする意識の中、自分の首まで蝶に変わっているのを感じた。
きっと今、私は怖いに違いない。
まるで、他人事のようにクラウスはそう思った。
そして、何も見えなくなった。

"クラウス……あなたならきっと―― "



はっ!
目覚めと共に起こした上体に肌寒さを感じ、クラウスは身を縮めた。
パチッと音を立てた音の先へ目を向ければ、暖炉の中で崩れた薪が火の粉を上げていた。
薄暗い室内を賢明に闇へ落とさないように燃えるその炎は小さい。
「寒いのはそのせいか……」
ポツリと呟いた言葉は誰も回収することはない。
床に置かれた絨毯も、その鮮やかで落ち着きのある色彩を隠すように、闇に霞み始めている。
絨毯の中央に濃い影を伸ばした揺りかごに、自分の直ぐ横にあるサイドテーブル。
元々、この部屋は広さに対して、置いてある物の数が少ない。
子供のためといえば、間違ってはいないけど……。
クラウスはもう一度、無人の揺りかごに目を向けると、直ぐに窓へ視線を移した。
「ゆ……めだったんだ……きっと」
外は太陽を押し込むように、藍色の空が広がり始めている。
クラウスは片手で額を覆うと、再び、椅子へ深く腰掛けた。
ここは自分の家の自室。
いったい、いつ家に戻った?
ヴィルマの話もおざなりに、工房を飛び出した所までは鮮明に覚えている。
でも、この椅子に座るまでの記憶が定かではない。
目を閉じても、浮かぶのは墓地とハンネとヒヤシンスに似たあの香りと……。
クラウスは背もたれに仰け反るように、天井を見上げるとゴクリと息を飲んだ。
薄暗い天井から降り注ぐのは鱗粉の雨。
パタパタと音を立てて、忍び寄る――恐怖。
――――――――――――――――――――
―――――――――――

「司祭……嘘、偽りなど、一切述べていません! 」

告解室にはクラウスの切羽詰まる声が満ちた。
それに動じることなく、ヴェルナーは静かに閉じていた目を開ける。
「"魂は、それによって第一に我々が生き、感覚し、思考するところのものである。
それ故、それはある種の説明・概念であり、形相なのであって、資料ないし基体ではない――"」
何時もと変わらない揺るぎない口調でヴェルナーが発したのはアリストテレスの"自然部分論"の一説。
ヴェルナーはクラウスへと視線を移した。
「アリストテレスが提示した自然感が主体となり、魂についての議論は多くなされてきたことは
ご存知ですかな? 」
「……司…祭? 」
困惑の色を乗せ、黙りこんだクラウスは今だに小刻みに震えているようにも見えた。
「魂については明白な回答は今だにないのです。それ故、今も議論は討じられているのですよ」
そう言って、一呼吸おくと、ヴェルナーは今まであった笑みを消し、真剣な眼差しを向けた。
「クラウス殿……いや、クラウス! 私が言いたいのは……この世には解明出来ないものが多々あるということ。
言葉で傷ついたり、美しい花に癒されたり……、原因があって結果がもたらされるのは事実ですがね。
その過程を実体を持って説明するのは不可能なのですよ。
しかし、人間という生き物は未知の物事を追求する事に喜びを感じるのも、また事実。
そして、それを疑問に持つのも、不安に感じるのもまた、実体のない心(精神/魂)というもの。
心を否定は出来ないでしょう?
あなたの心がそれを感じたというのなら、私が受け入れない理由などありませんな」
「……」
ヴェルナーは黙ったままのクラウスに苦笑いを浮かべ、目尻の皺を深くした。
「申し訳ない。答えになっていなかったかもしれませ「いいえ――」」
クラウスは血色の悪い顔へ薄い笑みをのせ、小さく息をついた。
「司祭は本当に……思ったままの方だ。
聖職者の方にこういう話をすれば、悪魔に取り憑かれているだの、信仰心が足りないと
説教されるのがオチだと思っていました。それでも、ヴェルナー司祭、あなたならと……」
疲れ果てたように、フッと鼻で笑うとクラウスはヴェルナーに目を合わせた。
「答えが見つかるなんて、元から思ってなどいません。
それでも、誰かに話さないと、どうにかなってしまいそうで……。
ただ、この纏わり付くものを……どうにかしたくて。
思いついたのは司祭とジュースだけでした」
「ジュース? 」
机上の手で鼻を塞ぐ素振りを見せていたクラウスは、ヴェルナーの問いにそのまま手を自分の頭へ持って行き、
髪をくしゃりと握った。
「あぁ……彼は聖歌隊時代の同期で。雰囲気と言うか、香りがとても似ているんです。私の――!」
そう言いながら、クラウスは飛び跳ねるように立ち上がった。
鎮まり出していた震えを思い出したように、体を小刻みに揺さぶるクラウス。
来た時同様、息を乱し、大きく開いた目は机上の中身が露わになった布包みを凝視していた。
そして、ガタンッと大きく椅子が倒れる音に紛れ、クラウスの震える声が小さく、しっかりと響いた。
「な……ど、どうして……。 確かに蝶だった―― 」






「フ……さん……フランツさん? 」
「!っすみません……」
ジュースマイヤーはヴェルナーの声に我に帰り、クラウスへ向けていた顔を上げた。
「いやいや……。突然、お呼びして、こんな妙な話ですからな。心の整理もつかないことでしょう」
「まぁ……」
確かに妙な話だ。
クラウスが"香り"に秀でていることは既知のこと。
でも、それに怯える姿を見たことがない。
好き嫌いがあったとしても、恐れを感じるのは初めてではないだろうか。
それにヴェルナー司祭の話によれば、クラウスは"みた"ことになる。
僕のように――。
「ですが、フランツさん。あなたを呼んだ理由、これで分かってもらえましたかな? 」
その言葉にジュースマイヤーはまじまじとヴェルナーを見つめると、口をついて出た言葉は当然のごとく
棒読みになっていた。
「ヴェルナー司祭……全く、分かりません」
クラウスが死ぬ前に妙な体験をしたことは分かった。
その中に僕の名前が出たことも分かった。
でも……それだけで、わざわざ僕を見つけ出し、知らせてくれたと言うのだろうか?
友として、クラウスの死の知らせをしてくれたのは、感謝したい。
でも、ヴェルナー司祭と僕には何ら繋がりはない。
わざわざ、見つけ出し、呼び寄せたのだ。
それに、今の話はきっとクラウスとの内輪だけの話に違いない。
僕の買い被りでなければ、ただクラウスに合わせるためだけが理由ではないはず……。
じゃあ……?
呆然としたジュースマイヤーを前にヴェルナーは「はっはっーー」と声を出し笑うと、
ニンマリと笑顔を貼り付けた。
「やっぱり、ですな」
「やっぱり……? 」
ジュースマイヤーの反応に頷くヴェルナー。
「ええ。分からないと思いました」
何処か自信ありげにさえ思える物言いに、自然と次の言葉を期待してしまっていたジュースマイヤーは
ヴェルナーの口から出た次のそれに唖然とせざるおえなかった。
「フランツさんをここまで、お呼びしておいてなんなんですが……、私にも分からないのですからな」
「えっ……」
「気づいたら、フランツさんの居場所を探し出し、手紙を出していた、と言ったら信じてもらえますかな? 」
眉を下げてはいるが、口元は上向きに弧が形作られたままのヴェルナー。
どう見ても説得力のないその表情に、押し黙ってしまったジュースマイヤーを一目すると、ヴェルナーは 続ける。
「先程の話……。クラウス殿が告解室で驚き席を立った後です。
彼はそのまま、フラリと出て行ってしまいましてな」
「それ切りなのですーー」と声のトーンが一段、低くなったヴェルナーをチラリと覗き込めば、
いつに間にか、その表情から笑みは消えていた。
話の内容からこの表情が適当であり、ジュースマイヤー自身も当然だとは思っていたが、
いざヴェルナーから完全に笑みが消えると、何処か違和感を覚えるのはどうしてだろうか。
「もちろん、告解室での話の直後に彼が亡くなったわけではありませんからな。
忘れ物もされていましたし……再び、会おうとは試みましたが、避けておられたようで……」
考えるように天井を見上げたヴェルナーは更に続ける。
「司祭という立場でありながら、彼の不安を拭ってあげることさえ出来なかった……。
人は時として、自らの力で立ち向かわなければならない時がありますがね。
彼の場合は、その時ではなかった。
私が言葉足らずだったばかりに……」
ジュースマイヤーの目には薄暗い中ではあったが、ヴェルナーが何かを耐えるように片手をギュッと
握り締めたように見えた。
「ヴェルナー司祭……」
「あっ……私としたことが真面目になってしまいましたな」
ハッとしたように、再び笑みを携えたヴェルナーの言葉に唖然としたものの、何度目かの事にこの短い会話の中で
何となく、ヴェルナー司祭という人物が分かった気がした。
"いや、真面目になっていいんです! "と内心、ヴェルナーに小突きづつ、垣間見えた笑みは何処か
陰っているように見え、ジュースマイヤーは掛ける言葉を見失った。
「フランツさん? 」
そして、"そこはツッコミどころですよ"とでも言うように、目に弧を描き、
"んっ?"と受け身の姿勢を自ら見せたヴェルナーにジュースマイヤーはたじろぐ。
「あっ、あの……「話が逸れましたな――」」
「クラウス殿に合ってあげて欲しい。そう思ったのはきっと、理由の一つでしょう。
でもーー彼の忘れ物を返す役目をあなたにお願いしたかったのかもしれませんな」
「忘れ物……?ヴェルナー司祭、あの……」
ジュースマイヤーは一度、棺の中のクラウスに目をやった。
クラウスは今、目下にいる。
どういう……。
ヴェルナーに向き直り、再び口を開くジュースマイヤーを制すように、ヴェルナーが声を重ねる。
「フランツさん、あなたしかクラウス殿に返せないようですからな――」
ヴェルナー司祭が返せなくて、僕には返せる。
まるで引っかけ問題のようなそれに、全く答えが見出せない。
ただ、一つ浮かぶのは――。
「その、クラウスの忘れ物って何なんでしょう? 」
「あぁ、これは失礼」
そう言って目の前に差し出したのは布。
布とは言っても、何か包まれているのか、包(くる)むように折り畳まれていた。
ジュースマイヤーが手にとって開いてみれば、そこには――。
「は……なびら? 」
「そのようですな」
淡いピンク色をした花弁が2・3枚、姿を表した。
「先に話したクラウス殿が驚き、立ち去っていった原因、とも言いましょうか……」
花弁だけと言うのもあるが、小さく円形に近いその形状から、ジュースマイヤーは
自分の知らない花のような気がした。
「何の花でしょう? 」
「フランツさんにも分かりませんか? 」
「ええ……」
ジュースマイヤーはヴェルナーをチラリと見た。
少し、おちょくる傾向のあるこの司祭。
笑みは変わらず、薄く顔に張り付いている。
声のトーン、即答ぶりからヴェルナー司祭は本当に、この花を知らないか……。
と言うことは、この花については現段階で何も知り得ない。
ジュースマイヤーはもう一度、花弁を布で包み直すと、クラウスのいる棺へ置く素振りをした。
ヴェルナーを目だけでそっと見てみる。
「ゴホンッ」
わざとらしい咳払いが響き、目を瞑ったヴェルナーは小さく頭を左右に振ったように見えた。
違う、ということか。
こういう意味での"返す"ということではないらしい。
何となく、そんな予感がしたが……。
結局、どう返せばいいというのか。
ジュースマイヤーは布包みをポケットに入れながら、ヴェルナーに振り返った。
「これは"適当な"次期に返します」
「ええ、お願いします……」
ヴェルナーのその表情は"通常時"の笑み。
ジュースマイヤーの頭にはある一つの考えしか思いつかなかった。
クラウスの死に関する件はヴェルナー司祭が直接、言えない、行動できない何かがあるのかと――
だからと言って、僕に何ができるのだろう。
ましてや、何をすればいいのかさえ、分からない。
そんな風にジュースマイヤーが一人考えに浸っている時だった。
「クラウス!! クラウスなの? やっぱり、死んだなんて、嘘だったのよね? 」
女性の声が墓地内に響き渡ったのは――。
カツッカツッーーと階段を駆け下り、次第に近ずくヒールの音。
ジュースマイヤーとヴェルナーはほぼ、同時に階段付近に顔を向けた。
しかし、その表情は各々違う。
ジュースマイヤーは"何事か? "と疑問に思い少し目を見開き、ヴェルナーは一瞬の驚き後、
何かを悟ったような何時もの笑み 。
ランプで照らされた薄暗い墓地内に姿を表したのは一人の女性。
今しがた響いた声の主に違いない。
息を荒くし、髪を乱した女性の表情は酷く、やつれているように見えた。
「ジョアンナさん……」
ヴェルナーの声を聞いたからか、それともジュースマイヤーとヴェルナー、
そして棺に眠るクラウスを見たからか。
ジョアンナと呼ばれた女性は手に持った花束を落とし、その場に崩れ落ちた。
「ク……ラウス……ほ…うに、本当に死んでしまったのね……」
ヴェルナーはジョアンナの横に立つと、肩を持ち、彼女を立たす。
「ジョアンナさん、心をしっかり持つのです。ゆっくりでいいですからな。前へ進みましょう――」
「司祭……申し訳、ありません」
ジョアンナはヴェルナーに目をやり、ジュースマイヤーの方を向くと驚いたように固まった。
「あっあの……」
「あぁ、彼はクラウス殿の友人のフランツさんです。
勝手とは思いましたが、クラウス殿に一目会ってはと、こちらにお連れしていました」
"すみませんな"とヴェルナーは目に笑みを残し、ハの字に眉を下げる。
ジュースマイヤーはハッとして、軽く姿勢を正した。
「もっ申し遅れました……僕はフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーと言います。
クラウスとは聖歌隊時代の同期で……」
「えっあ、私はジョアンナ・ロッシュと申します。クラウスの現妻で……。
お見苦しい所を見せてしまい、ごめんなさい」
ジョアンナはヴェルナーの支えに感謝し、一人で立つと、乱れた髪を直し、
少し考え込む素振りを見せ、口を開いた。
「ジュースマイヤーさん……、あなたの名前はクラウスから聞いたことがあります。
ですが、どうしてクラウスの葬儀をお知りに? 」
「あっ……」とジュースマイヤーが答える前に、ヴェルナーが割って入った。
「フランツさんは定期演奏会に来られましてね」
「エステルハージ楽団の、ですか? 」
薄暗い中でもはっきりと見えた、ジョアンナの濁りのない茶色の瞳。
それは真っ直ぐ、ジュースマイヤーに向けられた。
「そう…なんです……」
動揺しつつも、頷くジュースマイヤーはチラリとヴェルナーを見れば、
ウインクをしながら、何処から取り出したのか封書を手にしていた。
「フランツさんは音楽家。クラウス殿が楽団の関係者に招待状の手配をしていましてな。
私は渡すのを頼まれていたわけです」
ヴェルナーの持ち上げた手にある封書は遠くから見ても、何処か普通の封書とは違い、立派に見えた。
「ですから、私がクラウス殿の事はお伝えしました」
ヴェルナーのもっともらしい理由に驚きを通り越して、感心してしまったジュースマイヤーは小さく息をつく。
ヴェルナーの顔を見れば、やっぱり"通常時"の笑み。
これは嘘――?
ジュースマイヤーは困惑の表情を隠すように、少し俯いた。
「演奏会ついでに、クラウスに会えることを楽しみにしていたのですが……残念です――」
||