Nocturne-紅い月-
第1楽章(3)微睡みで触れる
何も見えない――。
気づけば闇の中にいた。
無ではなく、重い何かで敷き詰められたようなそんな場所。
”苦しい”
思わず口から出た感情は言葉として成り立ったのか。
発した瞬間からこの空間に溶け込み、また少し重たくなったような気がした。
首を締め付ける服の襟元を緩め、軽くなったのだと自分に言い聞かせていれば、不思議と軽減してくる圧迫感。
安堵から、いつの間にか強くなっていた肩への力を緩めると、僅かな空気の振るえを感じた。
思わず振り返るが、やはり見えるのは闇。
自分が立っているのか、そもそも地に足をつけているのかさえ分からないのに、振り返るも何もないのか――。
でも、今向いている方向から振るえを感じるのは確かだ。
いくら見ても変わらないこと分かってはいるが、とりあえず凝視してみる。
やはり、見えているか見えていないのかさえ分からない闇があるだけ。
でも、体に感じるこの感覚は己の存在を主張するように確かに強くなっていた。
今にも音になりそうなのに、形を成さない何かは、体に纏わりつくように、僕に触れようとする。
ねとついたようなそれに嫌悪感を感じた。
奥から次第に形を成そうと近づくそれ。
何故か足が震える。
キーーーーン
”う……っ”
突如、響いた耳鳴りめいた音に僕は耳を塞いだ。
余りにも甲高い音に頭がかち割れそうだ。
立っているのもやっとだった足は体を支えることができず、崩れ落ちる。
音から少しでも逃れようと、頭を体全体で隠すように蹲(うずくま)った。
こ・わ・い――
脳が沸騰するかのように激しく揺れる感覚に支配するのは恐怖。
怖い
止めろ
恐い――
やっ……め――
「やめろーーーーーー!!」
ここから離れたい――
ぱたりと音が消えた。
締め付けていた体への力を緩める。
心を落ち着け、息も整えたいところだが、どうやらその必要はないらしい。
まったく荒れていない息。
疲労感、ましてや痛みさえない体に見えるものならどんな状態か見たいと思った。
カッ…… コッ……
「だ…ぶ――」
人の声?
聞こえてきた声に辺りを見渡す。
不意に風が流れ出した。
暗幕のように闇が靡(なび)き、姿を現したり隠れたりする光。
その光の先に朧に見える人影をしっかり見たくて凝視する。
カチッ…… コチッ……
辺りで響く時計の秒針のような音がやけに耳に付く。
”あの光を逃したらおしまいだ”
なぜかそう思った。
まるで何かに急かされているようで、変に焦ってしまう自分を落ち着かせようと、音をかき消すことを試みる。
あの光に集中しろ――
カチッ……コチッ……カチッ……コチッ……
風が止んだ。
ダ……まだだ。
光が見える感覚が狭まっている。
ダ……メ……
再び訪れる闇――。
ダメだ――
……
……
もうどうでもいい――
そう思ったら、体からも精神からも力が抜けていく。
空を掴んだ手をそのままに、だらりと腕を下した。
見えているかさえ分からない闇から逃れようと目を閉じる。
――
――――
歪みだす闇。
風を切っているような感覚。
暗く厚い雲を抜け出し目前に広がったのは、夜の――町。
点々と設置された街灯が闇に沈みそうな町を光の世界へ留め、その暖かみのある色で照らされた情景はどこか
幻想的にさえ見える。
夜も深いのだろうか。
人が見当たらない。
道を包むように脇に隣接する建造物は視界に入った瞬間、既に後方にあった。
後ろでカタカタ揺れるのは同じく後方へと移った看板。
流れるように町並みは過ぎ去る。
「大丈夫?――」
暫くして聞こえた声に、光の先の人影だと思った。
建物と建物の間の、細い路地の入り口。
街灯のないその場所に立つ人影は月明かりに照らされて、ぼんやりとその華奢な体つきを浮かび上がらせていた。
黒とも赤とも見える上衣とスカートの繋がった服を纏っている――女性のようだ。
小さな手が彼女の服に皺を作っている。
その手の持ち主は彼女にしがみ付き、泣いているように感じた。
「誰?」
青い瞳――
闇に映えるその色と遭遇した。
纏めてあったであろう髪は風で乱れ、彼女の顔を隠すように踊っている。
しかし……だからこそ、その合間から見える瞳の印象をより色濃いものとする。
ただ、美しいと思った。
海のような青さなのに、月のようにどこか儚さを漂わせたそれ――”月の海”という言葉がしっくりくる。
しばらく見とれていたような気がしなくもないが、時間にすれば1分にも満たなかったに違いない。
問いかけられたのに黙ったままだったのを思い出し、何か言わなければと半分、口を開いたところで、直ぐ閉じた。
上の空だった頭が目の前の視界に意識を移した時には既に青はなく、最初と同じように月がぼんやりと人影を
浮かび上がらせていた。
視線を下に向けた彼女は未だに泣いている小さな手の持ち主の頭に片手を乗せた。
数秒考える素振りを見せた後、癖毛のない金色の頭から滑り落ちるように手を降ろす。
しかし、完全に落ち切るより前、両腕は闇を集めるように空気を掻き、少年諸共包み込んだ。
「大丈夫だから――」
さらに、強まった少年を抱く腕の力。
まるで彼女自身に言い聞かせているような言葉は闇にまぎれ消えていく。
変わる様にして、暫く聞こえなかった秒針の音が聴こえ始めた。
早く、強く、けたたましく。
そして、僕は闇に攫(さら)われた――。
風が打ち付け、開けては閉じてしまう目。
町並みが激しく後ろへ進むのに反して、前進していた。
空気を切る音が聴こえている気がした。
飛んでいる?
ここで漸く、感じ始めた自分の状況。
もう少し考えなくては――。
そう思った矢先、闇に天使が見えた。
1人ではない、4・5人……もっといるようにも見える天使は蒼白く輪郭を浮かび上がらせていた。
街灯がないここで、視界の助けは月明かりのみだ。
下に2人、上に2人、向こうに1人……。
皆、配置が決まっているのか、石像のようにまったく動く気配がない。
しばらくして、一様に皆の目が右に向いた。
下にいた一人が片腕を右上に上げ、指さす。
十字架――。
指さす先には十字に形作った白い石が天使と同じくらいの大きさを持ち、天に向かって伸びていた。
地面ではなく、煉瓦で半球を模(かたど)った中心にそれは立っていた。
何処かの屋……根――教会?
視線を十字架から壁伝いに下ろし、一つの窓を見た。
ベットで横になっている男の黒い頭。
寝がえりを打ったことで、見えた男の顔は夢見でも悪いのか、眉間に皺をよせ、酷く辛そうに見えた。
汗も少し滲んでいるようだ。
だ……れ?……でも、知っている――。
ハッ!!と僕は目を見開いた。
知っている……なんてもんじゃない!
あの男は――。
頭が男の正体を認識するより前に、光の眩しさに目を細めた。
気付いた時には月に近い位置にいた。
うっ……。
次第に広がる腹部から全身への痛み。
どうやら、何か大きな衝撃に、弾き飛ばされたようだ。
もう、教会も天使も見えない。
浮遊感は落下感に変わり重力に従う体。
朦朧とする頭では何も術が浮かばなかった。
ガサガサと音を立てながら、時々、枝に跳ねられ、傷付けられ、着実に下へと向かって行く。
密集した枝と葉、それの主たる大小の幹が点在していた。
どこかの森に落ちたことに、即死は免れそうだと安堵する。
地面に近づいて来たころ、下に出ていた枝が体を弾いた。
淡いピンク色の花びらが一枚、月明かりに照らされてゆらりと舞っていた。
それを追うように再び落ちて行く体は、いつの間にか花びらを追い越し、川へ突っ込んだ。
水が半分鼻に入りかけたところで危機を感じ、上体を起こそうと試みる。
以外にも簡単に持ち上がった上体。
どうやら川岸付近のようで、浸かったのはは上体だけだった。
溺れなくてよかったと安堵しつつ、まだ荒い息を浅瀬に手をつけ、整える。
水面が落ち着きだすに連れて鏡に変わるそれ。
ゆらゆらと黒い影が人型を成し、やがて映ったのは女性の顔。
金の髪に、透かしたような茶色の瞳をもつ彼女は、まるで自分であるかのように、荒れた息を整えている。
片手で頬を触れば、彼女も頬に触れた。
彼女が僕で、僕が彼女?
こんがらかりそうな頭で、ただ分かったのは心臓がドキリと一跳ねしたことだけだった。
次第に歪む女性の表情。
同様に僕の表情も――ということはない。
僕はこの状況を理解しようと、漠然と水面をみている。
つまり、ここからは僕は彼女とは別の第3者的な立場になったわけだ。
追ってきた花びらが水面に波紋を作る。
花びらが接触した先から広がる赤――。
キャ……――――――――――――――――。
女性の叫びが一瞬だけ聞こえた。
いや、まだ叫んでいるに違いない。
飛び出しそうなくらいに開いた目。
明らかな動揺をみせる顔と同時に口は未だに大きく開いていた。
僕の体は鉛のように重くて動かず、ただ脈音を体全体で感じていた。
迫りくる赤は外に広がる程に速度を増し、気付いた時には川は真っ赤に染まっていた。
既に鏡となさなくなった水面に女性の顔はない。
未だに叫んでいるのか。
水面から時折、ぽこり、ぽこりと空気が上がり、赤い水を小さく持ち上げては波紋を作り上げていた。
少し粘性のある赤い水は血にしか思えない。
早く浸かっている手を水から上げたいのに、固定された様にまったく動いてくれなかった。
不気味に見えるこの光景にゾッと鳥肌が立つのを感じた――。
―――――
――――――――――
ジュースマイヤーはパチリと目を開けた。
薄暗さを感じ、まだ何か続くのではと疑う。
しかし、そう考えている頭自体が霧がかったようで、そんな考えも直ぐに何処かへ消え去った。
ただ、ぼーっと暗さに慣れた目で天井を見つめる。
記憶に薄い光景にここは?と浮かぶ疑問。
ぼんやりしたまま不意に落とした視線が捕えたもの――壁に掛る十字に象った木――を見た瞬間、全ての回路が
繋がったように、この場に来るまでの記憶が流れた。
昨日の……いや、まだ今日?
上体を起こし、窓に頭を向けた。
外はまだ暗い。
この時間、唯一の光である月は、目の前の雲が過ぎ去るのをジッと待っていた。
少しずつ進む雲は、陰影をより濃くし、その壮大さと神秘性をこれでもかと知らしめている。
もちろん、月が自分の通過を待っていることなど知ることなく悠々と――。
「ふぅーー。」
ジュースマイヤーはいつの間にか留めていた息を吐きだした
はっきりとしている頭の感覚に、夢ではないことを実感する。
ベッドサイドに置かれた時計の針は2時を指していた。
目指していた教会に着いたのは、翌日近く。
途中泊った宿屋から出て数時間、急に景色の流れが遅くなったなと思い始めて、さらに数時間。
「あっ……あ~。この馬、足を引きずって……」
声と共に止まった馬車に、何事かと思い、ジュースマイヤーは外に身を乗り出した。
先程の声の持ち主である馭者(ぎょしゃ)が困り顔で近づいてきた。
「すいません。馬が怪我したようで、少し休ませてから、また立ちますんで……。
暫く、待って頂けませんか?」
腰を低くしての平謝りに、ジュースマイヤーは何も言えるわけもなく。
「分かった」
と、一言、了承の言葉を返したのだが。
馬が怪我して、この先進めるのか?
そもそも、今日着くのか?
疑問が浮かぶばかりだが、馭者(ぎょしゃ)に詰め寄ったところで、彼を焦らせるばかりで、何も良い結果が
生まれることはないと思いジュースマイヤーは心の内で留めておくことにした。
「はぁ~」
溜め息は誰に聞かれることもなく、馬車の中で消えていったのは何十時間も前――。
ゴクンッ――。
思い出したように感じた腰から尻にかけて痛み。
ジュースマイヤーはベッドの上で一人、生唾を飲んだ。
馬はそれでも頑張ってくれた。
ぎりぎりでも、翌日になる前には教会に着いたのだ。
それに、おかげでこれ以上の痛みは避けられたのだから。
馬車の揺れがこれ程までとは……。
聞くのと実際とはやはり違うのだと再実感していると、男と目が合った。
「あっ」
男も同じように小さく「あっ」と口を開ける。
雲に遊ばれるように覗かせては隠れる月が窓ガラスに映る男の姿を見せたり消したりしていた。
”あの男”――は紛れもなく、自分で。
引き切っていない寝汗が風に吹かれた様に冷たさを増長し、ジュースマイヤーは肩を上げ、身震いする。
自分を見て驚くのも、情けないが。
先(さっき)見た夢が夢だけに……。
ジュースマイヤーはガバリと掛け布団を頭から被ると、枕に頭を預け、無理やり目を閉じた。
明日はクラウスと会う。
それに僕がここに来ることになった事情を聞かなくてはならない。
意識の明瞭さが重要だ――。
兎に角、今は明るいことを考えよう……。
――――。
高鳴っていた心音が次第に安定し始め、やがて小さく寝息を立て始めた。
掛け布団の中。
ジュースマイヤーの表情にもう辛さは見られなかった。
気づけば闇の中にいた。
無ではなく、重い何かで敷き詰められたようなそんな場所。
”苦しい”
思わず口から出た感情は言葉として成り立ったのか。
発した瞬間からこの空間に溶け込み、また少し重たくなったような気がした。
首を締め付ける服の襟元を緩め、軽くなったのだと自分に言い聞かせていれば、不思議と軽減してくる圧迫感。
安堵から、いつの間にか強くなっていた肩への力を緩めると、僅かな空気の振るえを感じた。
思わず振り返るが、やはり見えるのは闇。
自分が立っているのか、そもそも地に足をつけているのかさえ分からないのに、振り返るも何もないのか――。
でも、今向いている方向から振るえを感じるのは確かだ。
いくら見ても変わらないこと分かってはいるが、とりあえず凝視してみる。
やはり、見えているか見えていないのかさえ分からない闇があるだけ。
でも、体に感じるこの感覚は己の存在を主張するように確かに強くなっていた。
今にも音になりそうなのに、形を成さない何かは、体に纏わりつくように、僕に触れようとする。
ねとついたようなそれに嫌悪感を感じた。
奥から次第に形を成そうと近づくそれ。
何故か足が震える。
キーーーーン
”う……っ”
突如、響いた耳鳴りめいた音に僕は耳を塞いだ。
余りにも甲高い音に頭がかち割れそうだ。
立っているのもやっとだった足は体を支えることができず、崩れ落ちる。
音から少しでも逃れようと、頭を体全体で隠すように蹲(うずくま)った。
こ・わ・い――
脳が沸騰するかのように激しく揺れる感覚に支配するのは恐怖。
怖い
止めろ
恐い――
やっ……め――
「やめろーーーーーー!!」
ここから離れたい――
ぱたりと音が消えた。
締め付けていた体への力を緩める。
心を落ち着け、息も整えたいところだが、どうやらその必要はないらしい。
まったく荒れていない息。
疲労感、ましてや痛みさえない体に見えるものならどんな状態か見たいと思った。
カッ…… コッ……
「だ…ぶ――」
人の声?
聞こえてきた声に辺りを見渡す。
不意に風が流れ出した。
暗幕のように闇が靡(なび)き、姿を現したり隠れたりする光。
その光の先に朧に見える人影をしっかり見たくて凝視する。
カチッ…… コチッ……
辺りで響く時計の秒針のような音がやけに耳に付く。
”あの光を逃したらおしまいだ”
なぜかそう思った。
まるで何かに急かされているようで、変に焦ってしまう自分を落ち着かせようと、音をかき消すことを試みる。
あの光に集中しろ――
カチッ……コチッ……カチッ……コチッ……
風が止んだ。
ダ……まだだ。
光が見える感覚が狭まっている。
ダ……メ……
再び訪れる闇――。
ダメだ――
……
……
もうどうでもいい――
そう思ったら、体からも精神からも力が抜けていく。
空を掴んだ手をそのままに、だらりと腕を下した。
見えているかさえ分からない闇から逃れようと目を閉じる。
――
――――
歪みだす闇。
風を切っているような感覚。
暗く厚い雲を抜け出し目前に広がったのは、夜の――町。
点々と設置された街灯が闇に沈みそうな町を光の世界へ留め、その暖かみのある色で照らされた情景はどこか
幻想的にさえ見える。
夜も深いのだろうか。
人が見当たらない。
道を包むように脇に隣接する建造物は視界に入った瞬間、既に後方にあった。
後ろでカタカタ揺れるのは同じく後方へと移った看板。
流れるように町並みは過ぎ去る。
「大丈夫?――」
暫くして聞こえた声に、光の先の人影だと思った。
建物と建物の間の、細い路地の入り口。
街灯のないその場所に立つ人影は月明かりに照らされて、ぼんやりとその華奢な体つきを浮かび上がらせていた。
黒とも赤とも見える上衣とスカートの繋がった服を纏っている――女性のようだ。
小さな手が彼女の服に皺を作っている。
その手の持ち主は彼女にしがみ付き、泣いているように感じた。
「誰?」
青い瞳――
闇に映えるその色と遭遇した。
纏めてあったであろう髪は風で乱れ、彼女の顔を隠すように踊っている。
しかし……だからこそ、その合間から見える瞳の印象をより色濃いものとする。
ただ、美しいと思った。
海のような青さなのに、月のようにどこか儚さを漂わせたそれ――”月の海”という言葉がしっくりくる。
しばらく見とれていたような気がしなくもないが、時間にすれば1分にも満たなかったに違いない。
問いかけられたのに黙ったままだったのを思い出し、何か言わなければと半分、口を開いたところで、直ぐ閉じた。
上の空だった頭が目の前の視界に意識を移した時には既に青はなく、最初と同じように月がぼんやりと人影を
浮かび上がらせていた。
視線を下に向けた彼女は未だに泣いている小さな手の持ち主の頭に片手を乗せた。
数秒考える素振りを見せた後、癖毛のない金色の頭から滑り落ちるように手を降ろす。
しかし、完全に落ち切るより前、両腕は闇を集めるように空気を掻き、少年諸共包み込んだ。
「大丈夫だから――」
さらに、強まった少年を抱く腕の力。
まるで彼女自身に言い聞かせているような言葉は闇にまぎれ消えていく。
変わる様にして、暫く聞こえなかった秒針の音が聴こえ始めた。
早く、強く、けたたましく。
そして、僕は闇に攫(さら)われた――。
風が打ち付け、開けては閉じてしまう目。
町並みが激しく後ろへ進むのに反して、前進していた。
空気を切る音が聴こえている気がした。
飛んでいる?
ここで漸く、感じ始めた自分の状況。
もう少し考えなくては――。
そう思った矢先、闇に天使が見えた。
1人ではない、4・5人……もっといるようにも見える天使は蒼白く輪郭を浮かび上がらせていた。
街灯がないここで、視界の助けは月明かりのみだ。
下に2人、上に2人、向こうに1人……。
皆、配置が決まっているのか、石像のようにまったく動く気配がない。
しばらくして、一様に皆の目が右に向いた。
下にいた一人が片腕を右上に上げ、指さす。
十字架――。
指さす先には十字に形作った白い石が天使と同じくらいの大きさを持ち、天に向かって伸びていた。
地面ではなく、煉瓦で半球を模(かたど)った中心にそれは立っていた。
何処かの屋……根――教会?
視線を十字架から壁伝いに下ろし、一つの窓を見た。
ベットで横になっている男の黒い頭。
寝がえりを打ったことで、見えた男の顔は夢見でも悪いのか、眉間に皺をよせ、酷く辛そうに見えた。
汗も少し滲んでいるようだ。
だ……れ?……でも、知っている――。
ハッ!!と僕は目を見開いた。
知っている……なんてもんじゃない!
あの男は――。
頭が男の正体を認識するより前に、光の眩しさに目を細めた。
気付いた時には月に近い位置にいた。
うっ……。
次第に広がる腹部から全身への痛み。
どうやら、何か大きな衝撃に、弾き飛ばされたようだ。
もう、教会も天使も見えない。
浮遊感は落下感に変わり重力に従う体。
朦朧とする頭では何も術が浮かばなかった。
ガサガサと音を立てながら、時々、枝に跳ねられ、傷付けられ、着実に下へと向かって行く。
密集した枝と葉、それの主たる大小の幹が点在していた。
どこかの森に落ちたことに、即死は免れそうだと安堵する。
地面に近づいて来たころ、下に出ていた枝が体を弾いた。
淡いピンク色の花びらが一枚、月明かりに照らされてゆらりと舞っていた。
それを追うように再び落ちて行く体は、いつの間にか花びらを追い越し、川へ突っ込んだ。
水が半分鼻に入りかけたところで危機を感じ、上体を起こそうと試みる。
以外にも簡単に持ち上がった上体。
どうやら川岸付近のようで、浸かったのはは上体だけだった。
溺れなくてよかったと安堵しつつ、まだ荒い息を浅瀬に手をつけ、整える。
水面が落ち着きだすに連れて鏡に変わるそれ。
ゆらゆらと黒い影が人型を成し、やがて映ったのは女性の顔。
金の髪に、透かしたような茶色の瞳をもつ彼女は、まるで自分であるかのように、荒れた息を整えている。
片手で頬を触れば、彼女も頬に触れた。
彼女が僕で、僕が彼女?
こんがらかりそうな頭で、ただ分かったのは心臓がドキリと一跳ねしたことだけだった。
次第に歪む女性の表情。
同様に僕の表情も――ということはない。
僕はこの状況を理解しようと、漠然と水面をみている。
つまり、ここからは僕は彼女とは別の第3者的な立場になったわけだ。
追ってきた花びらが水面に波紋を作る。
花びらが接触した先から広がる赤――。
キャ……――――――――――――――――。
女性の叫びが一瞬だけ聞こえた。
いや、まだ叫んでいるに違いない。
飛び出しそうなくらいに開いた目。
明らかな動揺をみせる顔と同時に口は未だに大きく開いていた。
僕の体は鉛のように重くて動かず、ただ脈音を体全体で感じていた。
迫りくる赤は外に広がる程に速度を増し、気付いた時には川は真っ赤に染まっていた。
既に鏡となさなくなった水面に女性の顔はない。
未だに叫んでいるのか。
水面から時折、ぽこり、ぽこりと空気が上がり、赤い水を小さく持ち上げては波紋を作り上げていた。
少し粘性のある赤い水は血にしか思えない。
早く浸かっている手を水から上げたいのに、固定された様にまったく動いてくれなかった。
不気味に見えるこの光景にゾッと鳥肌が立つのを感じた――。
―――――
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ジュースマイヤーはパチリと目を開けた。
薄暗さを感じ、まだ何か続くのではと疑う。
しかし、そう考えている頭自体が霧がかったようで、そんな考えも直ぐに何処かへ消え去った。
ただ、ぼーっと暗さに慣れた目で天井を見つめる。
記憶に薄い光景にここは?と浮かぶ疑問。
ぼんやりしたまま不意に落とした視線が捕えたもの――壁に掛る十字に象った木――を見た瞬間、全ての回路が
繋がったように、この場に来るまでの記憶が流れた。
昨日の……いや、まだ今日?
上体を起こし、窓に頭を向けた。
外はまだ暗い。
この時間、唯一の光である月は、目の前の雲が過ぎ去るのをジッと待っていた。
少しずつ進む雲は、陰影をより濃くし、その壮大さと神秘性をこれでもかと知らしめている。
もちろん、月が自分の通過を待っていることなど知ることなく悠々と――。
「ふぅーー。」
ジュースマイヤーはいつの間にか留めていた息を吐きだした
はっきりとしている頭の感覚に、夢ではないことを実感する。
ベッドサイドに置かれた時計の針は2時を指していた。
目指していた教会に着いたのは、翌日近く。
途中泊った宿屋から出て数時間、急に景色の流れが遅くなったなと思い始めて、さらに数時間。
「あっ……あ~。この馬、足を引きずって……」
声と共に止まった馬車に、何事かと思い、ジュースマイヤーは外に身を乗り出した。
先程の声の持ち主である馭者(ぎょしゃ)が困り顔で近づいてきた。
「すいません。馬が怪我したようで、少し休ませてから、また立ちますんで……。
暫く、待って頂けませんか?」
腰を低くしての平謝りに、ジュースマイヤーは何も言えるわけもなく。
「分かった」
と、一言、了承の言葉を返したのだが。
馬が怪我して、この先進めるのか?
そもそも、今日着くのか?
疑問が浮かぶばかりだが、馭者(ぎょしゃ)に詰め寄ったところで、彼を焦らせるばかりで、何も良い結果が
生まれることはないと思いジュースマイヤーは心の内で留めておくことにした。
「はぁ~」
溜め息は誰に聞かれることもなく、馬車の中で消えていったのは何十時間も前――。
ゴクンッ――。
思い出したように感じた腰から尻にかけて痛み。
ジュースマイヤーはベッドの上で一人、生唾を飲んだ。
馬はそれでも頑張ってくれた。
ぎりぎりでも、翌日になる前には教会に着いたのだ。
それに、おかげでこれ以上の痛みは避けられたのだから。
馬車の揺れがこれ程までとは……。
聞くのと実際とはやはり違うのだと再実感していると、男と目が合った。
「あっ」
男も同じように小さく「あっ」と口を開ける。
雲に遊ばれるように覗かせては隠れる月が窓ガラスに映る男の姿を見せたり消したりしていた。
”あの男”――は紛れもなく、自分で。
引き切っていない寝汗が風に吹かれた様に冷たさを増長し、ジュースマイヤーは肩を上げ、身震いする。
自分を見て驚くのも、情けないが。
先(さっき)見た夢が夢だけに……。
ジュースマイヤーはガバリと掛け布団を頭から被ると、枕に頭を預け、無理やり目を閉じた。
明日はクラウスと会う。
それに僕がここに来ることになった事情を聞かなくてはならない。
意識の明瞭さが重要だ――。
兎に角、今は明るいことを考えよう……。
――――。
高鳴っていた心音が次第に安定し始め、やがて小さく寝息を立て始めた。
掛け布団の中。
ジュースマイヤーの表情にもう辛さは見られなかった。