Nocturne-紅い月-
第1楽章(2)手紙は前奏曲を綴る

あれはモーツァルトと出会う少し前のことだった――。

ハァ ハァ――
パッカ パッカ――

辺りには地面を蹴る馬蹄の音と馬の荒い息だけが響いていた。
「ジュースマイヤーさん。申し訳ないんだが、この先にある宿屋で一晩休ませてもらうよ」
「ああ……」
ジュースマイヤーは馬を操縦する馭者(ぎょしゃ)の声に聞こえたか分からない音量で返すと、馬車の窓から
外を覗いた。
見えるのはウィーンの町から少し離れた辺りから続く木々だけだ。
ただ、変わったのは辺りを覆う光――今はもう、木々は闇に溶け込み始めていた。
この時期の日の傾きは早い。
懐から取り出した時計で確認すれば午後4時30分を回るところだった。
慣れない馬車の揺れからくる気持ち悪さに馬車の天井を見上げ、背もたれに体を預けると、少し汗ばんだ額に
片手をのせた。

約6時間前――。

僕がサリエリ師に作曲中の教会音楽を見てもらっている時だった。
「こことここはもっと――「ジュース!!」」
駆けてくる足音と共に息を乱しながら現れたのは、僕と同じくサリエリを師とするマルセルだった。
「マルセル……どうした?」
息も整わないまま横腹に手をあてながら、マルセルはジュースマイヤーの前に手紙を突き出した。
質問に答えないマルセルにジュースマイヤーは眉を顰(しか)めつつ手紙を受け取った。
表には自分の名と共に、『訃報』『至急』と2つの単語が宛名とは色を変えて並んでいる。
すぐさま、封を開けると中には一枚の紙。
”友の死の知らせ”と”至急、友の住む町アイゼンシュタットに来てほしい”という内容と共に、無理を言って
申し訳ないと詫びる文面が封筒同様、達筆だが荒々しい字で並んでいた。
「ベルク教会……エドマンド・ヴェルナ―司祭?」
ジュースマイヤーは手紙の一番下に書かれた宛名を口にしながら、自分の記憶を溯ってみた。
しかし、エドマンド・ヴェルナ―司祭の名はどの記憶にも結び付かず眉を顰(しか)めるばかりだ。
「ジュース君、行った方がいいのでは?」
手紙をもったまま動かないジュースマイヤーを不思議に思ったのか、サリエリは手紙を「失礼」といい、覗きこむと
ジュースマイヤーに声をかけた。
「で……すが…「ジュース君!」」
声のトーンが上がったサリエリをジュースマイヤーは反射的にみた。
「友の死だぞ。また会えるものでもあるまい。何を考える余地がある?」


友――クラウス・ロッシュは唯一親友と呼べる人物だ。
彼がどう思っているのかは分からないが……。
6歳で母を亡くし、厳格な父との生活に窮屈さ感じていた僕は、学校を卒業と同時に家を出て、クレムスミュンスターにある
修道院の聖歌隊員になった。
そこで知り合ったのが彼クラウスだ。
もともと、逃げるようにして入ったこの世界。
覚束ない足取りで歩みだしたからか、少し皆に引け目を感じてしまい、うまく皆と溶け込むことが出来なかった。
その頃だった。
中傷めいた、自分を否定するような手紙が自分の部屋に届くようになったのは――。
些細なことだ、気にしなければいい、読まなければいい。
でも、毎日のように届く差出人不明の手紙は嫌が追うにも自分の頭を支配し、胃の痛みを感じることさえあった。
それは僕を陥れるには十分だった。
いつもと同じく僕は”誰がなぜ?”と頭を巡り、震える手で手紙を読んでいた。
はずが……いつの間にか、手紙は手元になく、隣に立つ僕と同い年くらいの少年の手元に移っていた。
彼は徐に手紙を鼻に近づけた。
「トーマス……か」
彼が匂いを嗅いでいることに僕が気づいたのは彼の口から零れた音が完全に消えてからだった。
手紙から顔を外し、壁をみていた彼とその様子を凝視していた僕の目が合うと、彼は口に弧を描いた。
「僕はクラウス・ロッシュ」
「あっ僕は――」
自己紹介されたのに数秒遅れて気付き、自分の名を告げようとするが、クラウスは既に去ろうとしていた。
すれ違いざま、彼は僕の肩に手を置くと一言呟いた。
「終わらせるから。ジュース」
その言葉に一瞬なんのことか分からなく、僕は固まったまま、クラウスの去っていく後姿を見つめていた。
しばらく経った頃、手紙を僕の部屋に置こうとしている同じ聖歌隊員のトーマスが修道士に見つかったことを知った。
見つかったトーマスの罰についてこそこそと話す知人たちを横目に、ちらりと出会ってから共に行動することが
多くなった横に立つクラウスに目をやった。
彼はただ黙々と発声練習に打ち込んでいた。
でも、一瞬合ったあの深緑の瞳に、彼がやってくれたのだと確信めいたものが渦巻いた。
この事件が昔話になりかけた頃、彼が笑いながら言ったことがる。
「ジュースはいつも清流の香りがしていたのに、あの時は滞ってた。こういう香りは滅多にないからこのままじゃ
いけないと思ったわけ」
清流の香りって?と思ったが分かるような分からないようなそんな気がしたから、ただ曖昧に返事をしていたことを
思い出す。
それから、彼と接するうちに気づいた。
僕とクラウスには同じようにあまり口外したくない何かがあると――。
だからこそ、共に同じ道を歩むものだと信じて疑わなかった。

「僕、音楽やめることにした」

彼の決意を聞いたのは、修道院にきてから8年目のある日のことだった。
僕が声変わりを機にヴァイオリン奏者に転向して、彼もまた以前から興味を持っていたチェロ奏者になるものだと
ばかり思っていたから、その時の僕の表情は動揺を隠し切れなかったに違いない。
彼の迷いのない目に”どうして?”と聞くことさえ危ぶまれた。
聞いてくれるな――そう強く言われた気がしたのだ。
どんな道だろうと、必ず選択しなければいけない分岐点に立つときがある。
「僕に音楽がなかったら、きっと――」
いつだったか、疲れた顔をして、頬杖をついた彼の口から零れた溜息のような呟きを思い出した。
”きっと――”の先を彼は選択したのだろう。

その次の日――

「ジュース君、調子悪いなら帰れよ」
知人の一人が声を掛けてきたのは、グループ練習の一曲が終わった時だった。
声を掛けた知人越しに辺りを見渡せば、眉を下げている人、睨んでいる人、皆、思い思いの感情で僕を見ている
ことに気づいた。
「ごめん。少し休憩してくるよ」
苦笑いをして、椅子にヴァイオリンを置くと、僕は席を立った。
夏のカラッとした暑さの中、どこかに隠れていた秋の風が一足早く僕の顔を掠めた。
次第に落ち着きを取り戻す頭で思い起こす。
何時まで経っても来ないクラウスに昨日が最後の日だったことを知ったのは数時間前のこと。
親友だと思っていたのは僕だけか――
こんな感情で曲を乱すなんて……。
さっきのヴァイオリンの音色は最悪なものだったろう。
「馬鹿だな~」
俯いた頭を大きく振ると、パッと空を仰いだ。
僕の顔を撫でた秋めいた一風が嘘のように、どこまでも青い空にぎらつく太陽、まさにそこには夏が広がっていた。
眩しさに目を細め、風でゆっくりと流れる青に映える白を見つめた。
考えれば考えるほど、クラウスという存在は掴み所のない、まさにあの雲のようなやつで、僕は助けられてばかり
だった。
いつのまにか親友の支えなしでは歩むことさえ出来ない弱虫になってしまっていたことを実感した。
天に手を伸ばし、掴めるはずのない雲を握る。
”今度は自分の力だけで、この世界の視野を広げてみせる”と僕が静かに誓ったのは3年前のこと。
そしてその時は彼とまた会って――。
どうやらその誓いも守れないものになるらしい。

雲は風に霞んで消えたようだ――。


黙ったままの僕に躊躇(ためら)いの色が見えたのか、”はぁ”とサリエリの溜め息が聞こえた気がした。
「こちらの事は気にすることはない。もうそろそろ君にはモーツァルトの補佐に従事してもらおうと思っていたんだ。
その前の息抜きと考えればいい」
ジュースマイヤーの肩に手を置き、一人頷くサリエリ。
「彼に付くと暇がなくなるぞ」と言う言葉も忘れずに――。
「モーツァルト……の補佐……」
まだ、回らない頭で理解しようとジュースマイヤーはサリエリに言われた言葉を反復する。
薄々、気付いてはいたが、この状況でさり気なく、自分の”モーツァルトの補佐従事”の件を言われるとは――。
自分の今後の事に関わる重要なことなだけに、さらに頭が回らなくなった気がして、ジュースマイヤーは
ただ漠然とサリエリの顔を見た。
自分の言った言葉など気にしていないのか、この展開を適当と考えているのか、「んっ?どうした?」とも
言いたげなサリエリの表情に少しだけ嫌気がさした。
この師は――。
「急がなくていいのか?」
前でサリエリとのやり取りを見ていたマルセルはいつ、息が整ったのか、いつもと変わりない話し方でジュースマイヤー
を促す。
その言葉に急に戻ってきた思考は僕を急がした。
椅子の上の上着を取ると自分の譜面を掻き集め、走り出す。
すれ違いざまマルセルに手紙を持つ手を見せる。
「ありがとな」
「ああ、気をつけて行ってこいよ」
マルセルの言葉を聞き、再び一歩踏み出そうとした時、ジュースマイヤーはサリエリの声に振り返った。
「馬車は家の前に用意させる。それで行きなさい」
僕は目を丸くした。
金銭的なことを考えると苦しいが、急ぎだから馬車は自分で手配して行くつもりだった。
正直、有り難かった。
「あっありがとうございます」
譜面を落とさないようにしっかりと両手で押さえ、ジュースマイヤーは深く礼をした。
「いいよ。そんなこと……急ぎなさい」
「はい。行ってきます!」
なぜかサリエリとマルセルに笑われた気がしたが気にしない。
僕は今度こそ駆けだした。

――――――――――――――
――――――

ジュースマイヤーは閉じていた目を開け、馬車の天井ごしに思考回路をめぐらす。

まだ、実感が湧かなかった。
あの修道院でそれぞれの路を歩みだしてから、文面での現状報告はしていたものの、実際に会って話すことは
一度もなかった。
初めのころは彼は旅ばかりで、会うことは難しかったが、暫くして所帯を持った彼はある町に住み着いた。
彼の住む町まで国が離れるほどの距離でもなく、況(ま)してやあのハイドンの住む町である。
なのに共に会おうとしなかったのは、彼も僕もまだ自分の目指す所まで辿り着いていなかったからだろう。
実際、言葉で交わした約束ではないが、ジンクスのような何かを互いに感じ取っていたのは事実。

馬蹄の規則正しい音が緩みだし、やがて音が消えると共に馭者(ぎょしゃ)の掛け声が響いた。
「宿屋に御到着ですよ――」