Nocturne-紅い月-
第1楽章(1)雨は止まない

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君との出会いは偶然で別れは必然だったのだろうか――




「こうするしかないの――」

降りしきる雨の中、彼女の声がやけに耳に届いた。
屋根の上に立つその表情は暮れはじめた日のせいではっきりとは見えないが、戸惑いの色を見せながらも、
ぎこちなく笑っているように感じた。
彼女は再び口を動かす。
「あ――に――――」
急に吹き付けた風が雨と共に言葉をさらう。
僕が「何?」と問おうと口を開く間もなく、風は彼女をもさらった。
目に入る滴を拭えない。
僕はただ目を大きく開き、宙にいる彼女を見つめていた。
それは一瞬で――直ぐさま、時を刻むことを思い出した時間は急激に回り出した。
激しく踊る彼女の髪や服は風を切り、上へなびくと同時に、体は下へと落ちて行く。
「うぁ――っ!!」
”やめるんだ”と、”嘘だ”と様々な感情が入り混じり、僕の口から発するのは唸りにも似た叫びだけだった。
そして、一瞬、沈黙が走る。
僕は見たくないものから目を背けるように、硬く目を閉ざした。
次に聞こえたのは地面に接触する鈍い音。
その衝撃で地が揺れたように、強張って動くことのなかった僕の足は崩れ落ちた。
そして、再び開いた僕の目には赤く染まった彼女が映っていた――。

――――――――――――――――


1791年12月7日――
この日、天だけは彼の死を嘆いていたのだろう。
雪と雨が同時に降り、それを増すように風が舞っていた。
そんな中、執り行われた葬儀は一世を風靡(び)した彼――僕の友人であり、兄であり、師ともいえる
アマデウス・モーツァルト――が亡くなったというのに、あまりにも簡素なものに感じられた。
彼の妻子は葬儀に姿を見せず、参列した関係者も噂話に余念がない。
死と共に、彼の存在していた軌跡さえ、消えてゆくようで、やり場のない気持ちが僕の心を渦巻いていた
のは、もう何時間も前の話だ。

パチッ――

暖炉にくべた薪のはじける音にジュースマイヤーは覚醒を余儀なくされた。
目覚めと共に感じる首の痛みに、鍵盤から離れた彼の手は首に移る。
首を摩りながら、窺(うかが)えた窓の外はただ静かに涙するように、重たい水を含んだ雪がしとしとと
降り続けていた。
いわゆる静寂の中、ピアノの音さえしなかったことに、彼は一人フッと鼻で笑った。
鍵盤に置かれた指は鍵を弾くことなく添えられ、鍵盤に上体を預けることもなかったらしい。
”音楽を愛する者は楽器も愛する”音楽家として大切な心構えをこんなところでも律義に発揮している自分が
少し馬鹿らしく感じた。
そんな自分をもっと笑ってやりたくて、ガラスに映る自分の顔に焦点を合わせれば、なんとも情けない男の顔
がそこにあった。
顔を真っ赤にして、同じく赤くなっているであろう瞳はほどんど落ちた瞼の隙間から、何処か宙を彷徨うよう
に見ていた。
ジュースマイヤーは少しボケていた頭が急激に冴え渡った気がした。
足元にあった空のワインボトルがコロコロと音をたて、向こうの壁まで転がってゆきことなく、やがて床に落ち
た手紙の上で止まると同時に思い出す数時間前のこと。
ざわつく心を落ち着かせようと、強い方ではない酒を飲んでは何かを我武者羅に奏でていた姿が浮かんだ。
死――特に心を通わせた者の死は何時だって、積み重なるばかりで乗り越えることができない。
家族同前だったモーツァルトが逝ってしまったことで、どれだけ自分の心の支えとなっていたのかが今更ながら
に分かった気がした。
まさに心に穴が開いたという表現が正しい。
その開いてしまった穴は心の奥底に閉ざしていた思い出を呼び起こす切っ掛けとなってしまったようで、今、
ジュースマイヤーの頭を占めるのはそのことばかりだった。
モーツァルトの死も耐え難いものであり、亡くなって日も経っていない彼のことより、彼と出会う前の何ら、
彼と関わりのない”彼女”のことを考え、悲しんでいる自分は薄情者ではないか――と自問自答するも、開けて
しまった蓋はそう簡単には閉じないようだ。
彼女のことを愛していたのかと問われれば、分からない。
彼女との出会いも別れも人生にすれば一瞬に過ぎないことだった。
ただ、いつの間にか僕の心に宿って離れなかった。
「本当に選択肢はそれしかなかったのか……」
弱々しくしく彼は一人つぶやいた。

おもむろにジュースマイヤーは鍵盤の指を動かし始める。
奏でるはモーツァルトが作曲を手掛けていた「レクイエム」らしきもの。
まだ、未完だから正式なタイトルもしらず、ただ彼が作曲していた葬送曲とだけジュースマイヤーは認識していた。
モーツァルトの家を訪れた際、作曲中の彼が奏でていたのを耳にしただけだから、完全なるモーツァルト作曲で
はなく、彼ジュースマイヤーのアレンジが入ってはいたが、ここは彼の自宅、彼一人の空間に遠慮など必要ない。
思うがままに奏でる。
静寂の中、おごそかに始まる別れは波打つように怒りと悲しみをぶつけ合い、言葉にならない叫びが部屋の中に
メロディとして木霊していた。

パン!パン!パン!
「ジュースマイヤー君!!」
唐突にかけられた自分の名を呼ぶ声と手を打つ音にジュースマイヤーは一瞬のビクつきと共に、次の音を奏でる
ことはなかった。
掛けられるはずのない声の主の方に目を向けた。
「いいねぇ。実にいいよ!でも――」
部屋の入り口の淵に背を預ける人物は薄暗くて、はっきりと姿は見えなかったが、自分の口はその名を無意識に
紡いでいた。
「モーツァルトさん……」
久々の感覚に少し自分の目が見開いたのを感じた。
さっきまでは気付かなかったが、部屋の温度が少し下がっているようで、ジュースマイヤーは身震いする。
そんなジュースマイヤーの様子を男は眼で笑うと(ジュースマイヤーはそう感じた)言葉を続けた。
「でも――駄目だ。それは私の曲だよ。盗みは良くない」
そう言いながら、体の向きを変えた男の顔はやはりモーツァルトで、ランプの灯りがはっきりと教えてくれる。
「いえ、盗んでなど……モーツァルトさんが作曲していた時の鼻歌が頭にずっとこびり付いていて、何だか弾き
たくなって……」
自信のないジュースマイヤーの回答にモーツァルトは笑う。
「ハハハッ!!本当に君は相変わらずだね。もっと自分に自信を持ちたまえ。君の名でこの曲を発表したのでも
なければ、ここには”君一人”しかいない。ましてやこんな夜遅くにこの天候、誰の耳にも入りはしないさ。
そもそも曲は一部しか知らないこともさることながら、君の感情もあいまってか、私のとはまったく別の曲
になっている。まあ、これはこれでいい曲になっていると思うがね」
ジュースマイヤーはモーツァルトには頭が上がらなかった。
師とか兄とか友とかそういうことではなく、彼は本物の天才だ。
だからこそ、自分の凡人さに目が行かざるおえなかった。
「――しかし、コンスタンツェのことに関しては、自身を持ってもらっては困る」
彼の声が一際低く部屋の中に響いた。
あぁ、だから彼は僕の前に……
彼が姿を現した理由が分かった気がして、俯いていた顔を彼に向けた。
不意に目に入る、彼の手にある酒の瓶。
もう片方の手は壁に手をつき、ふらつきそうな足を支えながらも彼の目は真剣そのものだった。
「酔っているんですか?」
自分でも検討違いな言葉をこぼしていると感じずつも、頭に浮かんだ疑問を質問せずにはいられなかった。
目の前にいる彼でも、酔うのかと――
「ジュースマイヤー君。きみ、私と言い争いたいのかな?」
彼は閉じた目を再び開くと、強くジュースマイヤーを見た。
僕はただ首を横に振るしかなかった。
コンスタンツェ――モーツァルトの妻――の事はこんなにも直接的に言われたことはなかったが、彼が町を
離れている時にコンスタンツェへ宛てる手紙の内容は、必ずと言っていい程、僕との仲を疑う文面があること
を知っていた。
彼は僕を疑っているのだ。
「私はコンスタンツェを愛している。君との仲が気がかりで薄々眠ってもいられない。酔ってるか?だって
……酔いたいよ。酔ったふりでもいいからね!!」
彼は言葉を言い終わる間もなく、僕の目の前に顔をぬっと現わした。
「あっ……」
僕は驚きの声を漏らしつつ、彼から顔を遠ざけようと頭を少し後ろへ反らす。
彼らのようなものは人間の常識では考えられないことを急にしてくるので、本当に心臓に悪い。
早鐘のように鳴り響く、心臓の音を体中に感じて、やはり慣れないなと思いながら、ジュースマイヤーは唾を
一つ飲みこむと口を開いた。
「モーツァルトさん。あなたは何も分かっていない」
「何が?」
彼は即答すると、無表情で僕の次の言葉を待つ。
「コンスタンツェさんはあなたを愛していた。誰よりもあなただけを見ていた!それなのにモーツァルトさん、
あなたが見ていたのは義姉のアロイジアさんで……それにあなたのギャンブル癖にも悩んでいたんです……」
「じゃぁ、それで君と仲良くな……「違う!!」」
埒の明かないやり取りにイラついたジュースマイヤーはモーツァルトの言葉を遮るように声を荒げ、椅子から
立ち上がった。
「さっきから言っている!コンスタンツェさんは”あなたを”愛していた。ぼくは彼女とそんな仲ではなかっ
たし、これからもそんな事はありえない。どちらかといえば、モーツァルトさんを師であり、兄と慕うように、
コンスタンツェさんは姉のような存在です。それに、僕には……」
荒げていたジュースマイヤーの声が急に途絶え、数秒の静けさの後、部屋にポロンと鍵盤の音が響いた。
ピアノに目を向ければ、いつの間にか席を交代するようにモーツァルトはピアノの椅子に座っていた。
「その言葉が聞きたかったんだ」
ピアノに向けられた彼の表情は分からなかったが、先程までとは打って変わって声にすがすがしさを感じられた。
「私はね。いつだって君を疑っていた。それと同時に、君が兄と慕ってくれたように、僕も君を弟のように思っ
ていて、君を信じたいと思う自分もいた。私が手を離せない間、体の弱いコンスタンツェをみてくれているのは
君が姉のようにい慕っているからだと思ってもいた。でも、疑う余地が何もないとは言いきれないだろう?
大げさなくらい君との仲に対する嫌みの手紙をコンスタンツェに送りつけていた理由がわかるかな?」
僕は分からないというように、少し首をかしげた。
モーツァルトは口の両端を上げ、にんまりとすると再び続けた。
「君のその性格さ。駄目だよ。いつだって僕に弱気じゃ。こんなに手紙に書いて、君の耳に入っていない訳が
ないんだ。君の口からしっかり否定の言葉を聞きたかったんだ」
ジュースマイヤーに振り向いた彼の眼差しは弟をみるようにとても優しいものだった。
「で、さっきの話の続き。話してよ」
「えっ……」
突然振られた話についてゆけず、ジュースマイヤーが押し黙っていると、モーツァルトが苦笑交じりに口を開い
た。
「”それに、僕には……”の続き!ジュースマイヤー君、きみがこんなにも”レクイエム”を淀んだ迷いある
メロディとして奏でさせる要因になっているものだろう?聞きたいんだ。兄として。それに途中まで話されたの
に聞けないんじゃ。うかうか眠ってもいられない」
少し沈んだ表情のジュースマイヤーの肩にモーツァルトは大丈夫とでもいうように、片手を置いた。
「話せば楽になるって言うじゃないか。もちろん、君が話すことは墓まで持っていくことを保障する!」
悪戯っぽく笑う彼を目の前に、僕は小さく溜め息をつくとポツリポツリと話し始めた。
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