彩影の彼方2

エピメーテウス――。
彼はプロメーテウスの弟で、二つ名は”後悔”。
兄であるプロメーテウスと共にゼウスより罰を受け、”全ての贈り物”であるパンドーラーを妻に迎えている。
パンドーラーは言わずと知れた神々からの贈り物である箱を空け、災厄を解き放ってしまうのだが……。
エピメーテウスとパンドーラー夫妻はあの天誅として神々によって起こされた大洪水をも免れたとか。
でも、その後の事は記されていなかったような……。
そもそも、プロメーテウスとは違って、エピメーテウスは不死身ではない。
いくら長寿の神としても、人の始まり頃からの話が本には記されている。
既に存在してはいないだろう。
なら、なぜプロメーテウスはエピメーテウスの話を?
まだ、生きているということなのだろうか?
だとしても、何故私に……。
確かに私はパンドーラーという役割を与えられているが、パンドーラー本人ではない。
エマは廊下の一角にあるドアの前で立ち止まると、躊躇することなくそのドアノブへと手を伸ばした。
他のドアのような過度な装飾がないだけで、あとは他と同様の作りをしたドアは同じく、何の標識もない。
普通さを主張するように他のドアの間に”ただの”ドアは控えめに存在していた。
この地に来て、何度開いたことだろう。
かつての仲間たちが胸を躍らせ、時に笑い声を上げながら会話を楽しむ声が何処かで聞こえた。
でも、もう……。
振り向かなくても、分かりきっている答えにギュッと目を瞑れば、残像のように薄れる声。
事実は時に残酷で、真正面を向いて歩くことが出来る人は一握りだと思う。
私は一歩前へ出るよりも前に、足が竦んでしまう。
ゾクリッ
そんな考えを余所にやる様にヒンヤリとした空気が肌に触れ流れていく。
開いたドアの先は真っ暗で何も見えなかったが、この寒さが鬱々とした気分をスッキリしてくれそうな気がして、エマは先を急いだ。
進むたびに壁に設置されたランプが灯り、後方で消えていく。
何度かそれを繰り返しながら、室内を進むと、変わり始めた匂いにエマは立ち止まった。
同時に、前方の開けた空間を一気に明かりが灯す。
眩しすぎない柔らかい明かりの下を進めば、立ち込めるのは本独特の匂い。
ここに来ると、自分も本になってしまうのではないかと、いつも不安に掻き立てられてしまう。
円状の壁全体に隙間なく敷き詰められた棚に、同じく隙間なくずらりと並ぶ本。
先は暗くて、何処まで続いているか分からないくらい高い天井を見上げても、その周りを覆う壁にはやはり本が並んでいる。
世界中の、否、本という形体をとった全ての本がここには集められているのだろう。
ギリシヤ神話に関する本はここに来て、最初に読み始めたテーマだ。
パンドーラーとして役割を与えられ、周りにいる者たちの名を耳にして。
ギリシヤ神話に登場する神の名と同じだったから。
でもこれだけの数の本。
まだ読み残している本があるのかもしれない。
『黒の浸透』『Nocturne-紅い月-』……
これらの本だってそうだ。
ばらばらに並んでいるせいで、最後まで読みきれていない。
エマは数冊の本を手に取ると、真ん中に設置された机の端に腰を下ろした。
ぐるりと辺りを見渡せば、今座っている広い机に、壁を見渡す限りに並ぶ本のみ。
「はぁ……」
静まり返った室内に、エマの溜息だけが大きく響いた。
パンドーラー。
この役割を与えられたのは、私を含め、36人いた。
でも、今は私1人。
皆、消えていったのだ。
本に捕らわれて……。
最初は突然、仲間が消えた事に驚き、脅えていたものだ。
半分、消えた頃には、次は私だろうとずっと思っていた。
だって、皆と違って、引っ込み思案で、主張するのが苦手だと自分でも理解しているような人間だ。
こういうタイプはヒーローやヒロインってタイプじゃないでしょ?
『エマ! 私たちであのクソじじいをギャフンと言わせてやるの! 』
私と最後まで残っていたミラの顔が不意に頭を過った。
強くて綺麗で、頼りがいがあって、私にとっては姉的存在だった彼女。
『もしも……もしも、どちらかがいなくなって、どちらかが残っても……。
本が膨大過ぎて、めげそうになっても、必ず読み続ける。未来を繋ぐ……。このことだけは約束だから――』
まるで、遺言のような言葉を放ったのは、彼女が消える数日前だった。
何か消える予兆のようなものがある?
このことを考えると、やっぱり恐ろしくなる。
でも、最後の一人となった今――。
私に全てが掛かっているのは事実。
責任は重大だ。
でも、責任の重さの実感が湧かないのは、なぜ私がパンドーラーに選ばれ、なぜ読むことで"彼ら"が救われるのか、その事が今だに分からないせいかもしれない。
先の見えない不安は大きい。
でもそれだけじゃない。
見えないものに押しつぶされそうで、ただ逃げているだけの自分が凄く嫌になる。
「あーーっ、やめ! 」
考えると切りがない!!
エマは考えを振り切る様に頭を左右に振るうと、机上へと目線を落とした。
「グレイズ……、神話に関する……、マクベス……」
手元のランプに照らされて、浮かび上がる本のタイトル。
どれもまだ、読んでいないもの。
「ふぅーー」
一冊を手に取り、まだ完全に振りきれない感情を振り払うように表紙を開いて軽く一呼吸すれば、不図、時間の事が頭を過ったが。
ちょっとだけならいいかな……。
そう思い、1ページ目を手にしたその時だった。
「エマ!!」
唐突に響いた男の声にエマはビクリッと肩を震わせ、開いたページが手から滑り落ちる。
静かな室内を揺るがしたその声は、酷く焦りを含んだもので。
振り向く間もなく、掴まれた腕の先を見れば、少し息を荒立てた黒髪の男が目に入った。
「ロイ……? 」
「どうして……どうして、いつも勝手な行動をするんだ! 」
ガタンッ――
バサッ――
椅子が倒れ、本が落ちる中、唖然とするエマをロイが手を引いてドアへ向かう。
「ロ…ロイ……ねぇ! ロイ! 」
思い切り振り払ったロイの手は、一度離れるが直ぐにエマの腕に伸び、再び掴む。
立ち止まったまま、俯く彼の顔を見れば、額に滲む汗。
走って来たのだろうか……。
相当、焦っていたことが窺えた。
「ロイ……何処に「……かった…」」
えっ?
躊躇するようにエマが口を開けば、遮る様にロイが口を開いた。
「怖かったんだ。もしも、エマまで失ったらって考えたら……」
一息ついて、ロイのエマの腕を掴む力が強まった。
「勝手に……俺が居ない所では読まないでくれ! 」
「ちょっと読もうと思ってただけだよ。そんなには……」
濁すように言い返すが、何時になく真剣な眼差しを向けられ、エマは押し黙るしかなかった。
「ただの本じゃないって分かってるだろ! 本には――力が宿ってる」
「分かってる……でも、読むのが私の役割……」
「役割、役割って、俺だって本を管理するって約割はある! 」
「でも、ロイは私とは違う! 」
まただ――。
自分のもっとも嫌う言葉を自ら口走ってしまうことに、自分でも顔が歪んでいくことが分かった。
「俺では……やつらを…助けられないっていいたいのか? それとも、俺が人じゃないって……」
「そうじゃない! ……そうじゃ……」
「だったらなんだって「ロイには先がある」」
一度、口から発してしまった言葉は消えないもので、とめどなく溢れ出る感情に乗って口が勝手に動いていく。
「先って……」
「私はいつ、消えるかもしれない……」
こんなことを言いたいんじゃない――。
「読まなきゃいい! やつらは死んだり、消えたりはしないじゃないか」
「確かにそう……」
本当はずっと――。
エマはロイの顔を見上げると、直ぐに顔を反らした。
パンドーラーが消え始めたころから、プロメーテウスはある調査団を組んだ。
目的は、”彼ら”――人の状態を確認すること。
パンドーラーとして選ばれた私たち以外の人は『サイレント・フォレスト』と呼ばれる灰色の森奥深くで、この呼名のごとく”ただ”佇んでいるという。
私が何時からここにいるのか、はっきりはしないのだから、きっと彼らも何時からそこにいて、そうしているのかは定かではないのだろう。
そもそも、彼らは考える思考や意思、感情というものを放棄しているようだから、そのこと自体、考えているのかは不明だけど。
『きっと、あいつは楽しんでる―― 』
仲間の一人がポツリと呟いた言葉を思い出した。
そう、プロメーテウスは楽しんでいたに違いない。
人を忌み嫌う彼だから、わざわざ調査団を組んで、サイレント・フォレストに行かせる必要などなかったのだ。
結局のところ、彼は悪い方向へ状態が進んでいることを逸早く知りたかったのだろう。
『そうか――』
調査員の報告を聞き、彼にしては鼻を鳴らすこともなく、数秒黙り込んで去って行った姿が蘇る。
調査の結果は、彼が期待したものではなかったのだ。
パンドーラーが減る中、人は減りもしなければ、増えもしない。
相変わらず、時が止まったかのように、灰色に埋もれて、有るのか無いのかも分からない空を見上げていたという。
皆が安堵する中、プロメーテウスとは違った意味で、私は落胆した。
変わらないということは、私たちが本を読んだり、消えたりして、進んでいるはずと思っているだけで、結局は何も変えられていないことになる。
過程が結果に結びついていないのだ。
でも――。
どうしてパンドーラーと彼らが繋がり、どういう結果が得られるのかは分からないけど。
エマはロイに掴まれていない方の手を固く握りしめた。
「でも、存在しているだけが生きているってことじゃない! 」
「エマ……」
言葉を失ったかのように、ロイはエマを呆然と見つめた。
「今の私みたいに考えれば考えるほど、泥沼にはまって身動きができなくなったり、目に見えないものに恐れたりするのは、思考や意思、感情があるから。
邪魔ものに他ならないってずっと思ってた。私も彼らのようになりたいって微塵も感じなかったなんて言えない。
でも、本を読んでいくうちに気付いたの。逆もあるって……。見えないものに安堵し、幸せを感じ、それは増殖する。
そして、負をも正に置き換えてしまうんじゃないかって。そのための必要条件なの。
人が人として生きるために――。心は読むことで目覚めるって思ってる。だから、私……」
「分かった……」
「ロイ? 」
切なげに眉をひそめて、放ったロイの言葉にはどこか突き放すような雰囲気が含まれているようで、エマは焦る様にロイを見上げた。
「ロ……っ」
途端に、掴まれていた腕を引かれ、エマはロイに抱きすくめられた。
「俺はエマを見守る。本を管理するっていう役割は本を読む者がいてこそ、意味を成す 」
”読む者がいない本なんて、管理する必要ないだろ? ”そう言って、ロイは腕を解くと、エマの両肩を掴み、何処か晴れたような笑みを向けた。
人とか、神とか、役割とかそんなの何の関係もないって分かってる。
大切なのは心なんだって。
なのにその心が意識して、隔てようとしてしまう。
だから、私自身にとっても、読む必要性を感じてる。
このことは言うつもりはないけど、読むことが役割から何か別のものへ変わっているような気がする。
現に、”消える”ことへの恐れよりも、読みたいという思いが最近は強い。
先の見えない不安は拭いきれないけれど……。
きっと、これは私の我儘かもしれない。
「ごめん……」
そんな意味を込めて、エマは困ったように笑った。

ジリリリリ……。

廊下の一か所がランプで灯ると共に、壁に設置された黒電話が浮かび上がった。
受話器を揺らしながら、けたたましく鳴る呼び出し音にロイは怪訝な目を向ける。
「ひげじじいか……。 そういや、ほっぽって来てたっけ…「えっ!? 」」
「ダメじゃない! 早く戻って」
エマは慌てて、ロイの背を押す。
「エマ……」
ロイはエマの手を押し返すように、グッと足に力を入れて、立ち止まった。
「時とパンドーラー消失の関連性が消えない以上、俺が時をみる」
”そばで――”そう言って、ロイは振り返ると、エマの頭に手を置く。
「庭の木、見たか? 」
「にわ……? 」
満面の笑顔のロイを前に、話の意図が掴めず、エマは唖然と見つめ返す。
「知らないようなら、丁度いい! 今日はそこで読む。決定な!」
「えっ? あ……」
エマは自分でもよく分からない声を発っしていたが、それを気にする様子もなく、ロイの笑顔はさっきよりも増した気がした。
ロイは目線を廊下の奥の奥へ向けた。
「本は俺が持っていくから、先に向かってろ」
「でも……持っていけるよ」
はぁという溜め息とともに、あからさまに大きく頭を振るロイの態度は冗談を含んだものだろう。
自然と口が三日月のカーブを描くのがエマ自身、分かった。
「エマは努力家だから、何処で読みだすか分からないからなぁ。庭の木に向かってればいいんだ。後は、俺に任せろ! 」
そう言い終わるや否や、ロイはくるりとドアへ足を向けると、部屋を後にした。
「絶対、読むなよ! じゃぁな……」
その言葉を残して――。
「なに、それ……」
エマは嵐が過ぎ去ったようだと感じづつ、一息つくとロイ同様、ドアへと向かった。