彩影の彼方1

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約2億年前、人は言葉も文字も持たなかった。
人と人とが接することで、やがて言葉が生まれ、文字が生まれたのだ。
それからというもの、人は目まぐるしいスピードで進化したと言えよう。
それに拍車を掛けたのは「火」であることは、誰の記憶にも新しい。
伝達・記録手段を手に入れた人は他者が発見・獲得した技術を応用し、更に新しいものを生みだす。
特に火を基盤とした技術は多くの恩恵を与えた。
全ては生活を楽に、豊かにするために――。
しかし、その先に行きついた人はどうしたのだろうか?
現状維持に必死になるものもいれば、更に豊かさを求めようと他者のものを
奪うもの、そしてその隙間を埋めるように、大半を占めたのは"ただ"生きるもの。
そう――豊かさは不安を消し、苦悩を消し、欲を消し、希望を消した。
生きることへの執着が欠如した人々はそのことに気づかない。
己の足で己の道を進んでいると信じていた。
情報に左右され、一部の欲深き人の駒になっているなどと考えもしなかったのだ。
そして……。
ある世界では第三次世界大戦が起き、ある世界では止められない自然崩壊が起こり、ある世界では突然変異が起こり……。
始まりがあれば、終わりがある。
結局、人類は最高の発見ともいうべく「科学」に、その糧ともなった言葉から生まれた
「情報」「火」に足を掬われたのだ。
そう、そして世界は……「人」のいる全ての世界は終焉を迎えた――。



カツッカツッ――。

近づく足音にチラリと目線を向ければ、長い廊下の途中に影があった。
なんとなく嫌な予感を感じつつ、影が人型を成した所で、エマは即座に窓の外へ目線を戻した。
ぼんやりと庭園を眺めながら、ただ意識は近づく者の方へいってしまう。
なんでまた……。
こんなに広い屋敷でどうして遭遇するかなぁ。
今日は絶対に会いたくなかったのに……。
元来た道を戻るのも、逃げているみたいで嫌だし、だからといって話などしたくもない。
「あぁ、これはこれはパンドーラーではないか」
一人でそうこうしている内に、図太い声が頭上にふった。
後ろで足音が止まる。
フンッと鼻を鳴らし、無表情でこちらへ向けた男の顔が嫌でも想像できた。
溜め息を出したいのを押し殺し、エマは庭園を見つめたまま、口を開く。
「エマです。プロメーテウス様――」
「こちらに頭も向けぬとは! いくらパンドーラーであっても「っ! 私は!「いや、いい――」」」
エマが振り向いたのと、プロメーテウスが隣の男を制したのはほぼ同時だった。
「ですが、プロメーテウス!」
「ヘーパイストス、お前は私に二度言わせるのか? 」
「っ……」
ヘーパイストスと呼ばれた男は、プロメーテウスより一回り小さな体を更に縮込ませ、
苦渋を押し殺すように唇を噛んだ。
「ゼウスがここを再生の地とし、人に慈悲を与えた。その時から、彼女は我々と同等……
否、彼らにとってはそれ以上かもしれぬな――」
「意思があればのはなしで……!! 」
ポツリと吐き捨てるように眼鏡を上げながら小さく呟いたへーパイストスは、プロメーテウスの視線を感じ、慌てて両手で口を塞ぐ。
「だが、エマよ――」
「っ!」
プロメーテウスがエマの頬に触れた事により、エマは眉間による始めていた皺を一層深くした。
「パンドーラーもお主で最後。 彼らの行く末もただ一人に委ねられたという訳だ」
プロメーテウスの底知れぬ闇を従えた瞳がエマを射抜く。
「与えられたものを有効に活用できず、己の身を己で滅ぼす。予測通りの結果を示してみせた
愚かな人に再生の機会を与えるとは、ゼウスも私を罰した時のことをお忘れのようだ。
所詮、人は人……悪足掻きが出来たに過ぎない。パ「プロメーテウス様!!」」
突然声を荒げたエマにプロメーテウスは僅かに眉間を寄せた。
「いくら……プロメーテウス様とて、ここはゼウス様に与えられた人との約束の地。あまり
無闇な事をおっしゃってばかりおられると、ゼウス様の耳に入る日が来るかもしれません……」
「ハッハッハッ――パンドーラーに忠告される日が来るとはな! もちろん、私の二つ名を知っての事であろうな? 」
プロメーテウスは威圧怒りを含んだ言葉にも、物ともせずエマは彼を見上げたまま、頷く。
「”先見――”」
エマの答えに、フンッと鼻で笑うと、プロメーテウスは徐にエマの顎を掴み持ち上げた。
「エピメーテウスには近づくな――」
「えっ? 」
耳で囁かれた言葉にプロメーテウスの顔を見るが、真っ黒い瞳を閉ざし、既に廊下の先へと頭を向けている。
言葉の意図が掴めず、エマは遠ざかるプロメテウスの背を見つめるしかできなかった。
「あっ……お待ちください!」
へーパイストスが追うように駆け出すと、プロメーテウスは一度立ち止まり、頭を微かにエマへ向けた。
「ギリシヤ神話の話を読んだなら、知っているだろう? 」
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