黒の浸透 微睡(1)

 夢をみた。
 酷く曖昧で目覚めの余韻を残すかのような夢を――


  ――神に見捨てられたからって、神に背くなんて……

  ――王の兄って話よ……

  ――でも、可哀相じゃない……

  ――罪は罪だ――

 ざわめきが一層大きくなる中、群衆を掻き分けるように進む。
 支配するのは不安。
 人々の頭から見え隠れする塔の上の人物があと少しで確認できる――
 そんな時だった。
 「――待ちなさい!」
 自分の名を呼ぶ男の声と共に、手を引かれたと思ったら視界を奪われてしまう。
 「見てはいけない」
 単と告げたひと言とは裏腹に、彼の視界を覆う手は酷く揺れていた。
 フッと力の抜けた体を支えるように、男は私の体を強く抱きしめる。 
 頬を伝う涙は、ただ零れるばかり。
「ど…して、どうしてなの――」
 悲愴に満ちた声は辺りのざわめきに呑みこまれるように消え、やがてこの情景も薄くなり――
 
 
  蝶が舞う。

 ひらり ひらり
 
  闇の中、一匹の蝶が――舞う。


 差し出した手に誘われるようにやってきたそれは、指の合間を掠め落ちていく。
 自分の居るべき場所が分かっているのか、光を失い羽をはばたかせようともしない。
 早くと先を急ぐかのように――
 ただ真っ直ぐ、なされるがままに闇の底へと消えていった。
 指に残る掠めていったモノの感覚を確かめたくて、左手をそっと自分の顔に近づけ、親指と人差し指を擦り合わせてみる。
 感触も、視覚もない――あるのは不安。
 
 『ねぇ――』
 
 冷たく湿り気のあると思わる石壁にもたれ、漠然と天を仰いだ。
 閉じているのか、開いているのかさえ分からない瞼を開ければ、降り注ぐ金粉。
 消えていった仲間へ流す涙のような輝きは闇の輪郭を際立たせた。
 
 急に引き戻させるような感覚。
 と同時に、何処かから誰かの声が聞こえた。
 
 『ねぇ――その先にあなたの求めるものはあるの?』

 ―――――――


天から粒がこぼれる。
地面に当たり、分裂する。
跳ね返った粒がまた落ちる。
その繰り返し。
一粒ではない。
それは無数で限りなく、広範囲に広がっている。
雨――
やさしく落ち続ける雨が首都ロドニーを本格的に濡らし始めたのはついさっきのことだった。
昨日とは打って変わっての天候に、太陽が顔を覗かせる様子もなく、灰色に濁った空は街全体を覆いつくしていた。
その情景はどこか、フォグ町で事件のあった日の空と重なった。
また、昨夜見た夢も相まってか、シルビアを憂鬱な気分にさせるには十分だった。

「…ル……ア?」

「ねぇ……どうしたの!?」
体が揺れ、少年特有の少し甲高い声が響いた。
シルビアがハッと我に返った時には、バサリッという音と共に、眼下に傘の上部が広がっていた。
小さな手で握られた傘の持ち手が真っ直ぐシルビアへ向けられる。
「ありがと」
思わず零れる笑みを少年へ向ければ、彼はパッと笑顔を取り戻し、先程のシルビア同様、空を仰いだ。
「どうしたの? 空に何かあった?」
「んーんっ。違う。ただ……ちょっと、ボーッとしちゃっただけ」
「ふーん。大人の人ってやっぱ、よく分からないや。母様や父様もシルビアみたいに、急に固まっちゃって、何処かに目を向けていること……あるんだ」
急に沈んだ語尾に少年へ目を向ければ、相変わらず屈託のない笑顔で空を見つめている。
「考え過ぎなんだよ……。もっと、気楽に考えればいいのにね」
そう言って、その黒色の瞳を向けた少年の目線の先を追うようにシルビアも見る。
様々な人がある一点から列をなし、並んでいた。
シルビアもその一人で、その後ろにも幾人もの人が並ぶ。
本格的に降り始めた雨をしのぐように帽子を深く被り直す男性や子供を引き寄せる女性、手を翳して前を窺う青年、シルビア同様に傘をさす物もいたが、 それほど多くはなかった。
天気のせいかもしれないが、各々の表情は笑みがあってもどこか影があるように感じられた。
私もああ見えてるってことかな……。
こんなんじゃ、いい知らせも向こうから逃げていくよね。
きっと……。
シルビアが小さく溜め息をついた時だった。
「うふふっ! 辞めてくださいな。こんな所では皆に見られてしまいますわ!」
「いいじゃないか。皆、待ちくたびれて、僕たちのことなんか気にもしないさ」
後方で聞こえた声に、傘越しに目をやれば、綺麗に着飾った若い女を同じように高そうな生地の服で身を包んだ若い男が抱き寄せていた。
例外もいたか。
きっと、何処かの貴族の者だろう。
ああいう人たちはやっぱり、不安なんてないのだろうか。
「でも、もうそろそろ時間じゃないかしら?」
女が男を離すように男の胸を押した、
その声にシルビアも包みに挟んでいた紙を広げる。
「10時だって!」
「!?ダンテッ……驚かさないでよ」
唐突に横から入った声にシルビアがビクリッと肩を揺らすが、先ほど同様に悪びれた様子もなく満面の笑みを向ける。
「だって、またシルビア黙ったままなんだもん!」
「だからって……」
「驚くことの程、僕してないけどなぁー。でも、シルビアって一人でいろんな表情するから、見ているだけで面白かったけど!」
彼、ダンテは丁度、私の前に並んでいた少年だ。
身なりは明らかに庶民とは違い、先程の男性同じく高そうな生地の服を着こなしている。
こうやって話せば少年だと感じさせる幼さが垣間見えるが、黙っていればどこか気品のようなものも感じられ、大人びた印象を受けた。
黒髪に黒い瞳、そして女性のように白い肌、整った容姿のせいもあるかもしれないが。
きっと貴族に違いない。
それもあってか、話しかけるつもりなど一切なかったが、ダンテの方から話しかけてきたのだ。
年齢もビジィと近い。
両親や連れの者なしに来たようだが、この貴族や庶民といった階級に関係なく並ぶ、シルビアの前と後ろに広がる光景にそれもアリなのかなと思った。
でも、貴族の少年一人というのは何とも物騒なと思ったのは間違いない。
話を聞けば、いつも抜け出していると言っていたから、ダンテにとってはこんなのは大したことではないということなのかな?
「そういえばさ! もう10時回ったってのに、鐘ならないね」
ダンテは前に並ぶ男の腰ポケットにあった時計を盗み見た。
「本当……」
「お店の人、”黒薔薇”売る気なくて、鐘止めてたりして……」
「そんなわけないでしょ。鐘は教会のなんだから」
シルビアはもう一度、広げかけた紙を広げた。
”黒薔薇 10時販売開始 先着50名 1人1輪”
もうすぐある建国記念祭の参加権利が黒薔薇なのだ。
だから、皆挙って並ぶのだそう。
貴族は本人が行かずとも、誰か別の者に頼めばいいのにと思ったが
「俺さ、去年、並ぶのが面倒だから、使用人に頼んだ。そしたら、先着に間に合わなくて、買えなかったって、帰って来たの。じゃぁ、しかたないかって思ってたんだけど、数ヵ月後、他の使用人たちが記念日にそいつが教会に入って行くの見たって、盛り上がっている所に遭遇しちゃってさ。そいつ呼びだして、問いただしたら、泣いて謝ってきたんだ。
もちろん、クビにしたけどね。やっぱりこれだけは、自分で並ばなきゃって――」
そうした話を同じ列に並んでいた貴族らしき者が話しているのを耳にして、貴族も並ぶ事に納得したのだが。
貴族に嘘をついてでも、行きたい記念祭って、どんなものなのか。
ただただ、気になるばかりだった。
そもそも、この買い出しも、マリーに頼まれての事。
ただ、この紙切れとお金を渡され、「今日は私一人で大丈夫だから。シルビアはその買い出し、頼んだよ」と追い出すように、背を押されたのだ。

カーン――
一つ鐘の音が辺りへ響き、列を成していた人々は一斉に店へ目を向けた。
カーン――
カーン――
2つ、3つ鐘の音が鳴った頃には急かすようなざわめきと共に皆、前方へと押されるように進みだす。
目前のダンテを見れば、慣れているのか大したことのないかのように前へ進んでいた。
シルビアはというと、隙あらば横入りでもされそうなこの勢いにただ圧倒されすばかりで、ハラハラとしながらなんとか前方に付いて行っている状態だ。
「シルビア! 僕たち丁度40人目あたりだったから、絶対買えるよ。よかったね!」
シルビアの様子を知ってか知らずかダンテはワクワクした表情を向けたと思ったら、シルビアの腕を掴んだ。
「友達……だから――」とボソリッと呟き、引いて行く彼の背は小さいのに大きなものに感じられた。
小さな勇者ってとこかな?
「ダメ……かな?」
前を向いたままなので表情までは分からないが、戸惑いのある声が続く。
シルビアは頭を左右に振ると、その背に笑顔を向けた。
「もちろん。友達だよ」


カーン――
「ねぇ、ダンテ。黒薔薇の販売日って何時もより鐘の音が長いの?」
暫く経っても、鳴り続ける鐘の音に疑問を口走るが、ダンテの返事はない。
「ねぇ、ダッ…あっ」
もう一度、声を掛けようとした言葉は横からの衝撃と共に途中で遮られた。
「ごめんなさい」
申し訳なさそうな女性の声が響き、縺れて倒れ込んだシルビアに手を差し伸べる。
「いえ……」
お尻から倒れ込んだせいで痛みに顔を歪ませながら見上げた目の前の女性に一瞬、シルビアは固まった。
髪飾りも黒、ドレスも黒、靴も黒。
全身、黒が印象的なその女性は、その姿を隠すように同じく黒いベールを頭から被っていたが、その合間から見えた金色の髪に整った顔立ち、透けるような琥珀色の瞳を逆に際立たせているように感じだ。
それだけではない。
酷くやつれたその表情は、他の人とは何処か違った雰囲気を彼女から滲みだしていた。
手を取らないシルビアに痺れを切らしたのか、彼女はグッとシルビアの腕を掴んで引き寄せた。
十字に、羽に、薔薇。
女性の胸元のネックレスの模様が視界一杯に広がる。
「ごめんなさい――」
「!?」
もう一度、女性が言葉を放ったと同時に、引かれていた体を強く抱きしめられる。
少しの痛みに眉を歪ませながら、シルビアが見上げた女性の顔は悲愴に満ち、その瞳はシルバーに変わっていた。
女性は囁くように聞いたこともない言葉を並べたて、唇を素早く動かしていく。
揺れる視界に何とか意識を保とうと、シルビアは唇を噛んでみるが、痛みどころか、血の味さえ薄れていく。
一枚、二枚と舞いだした黒い花弁に埋もれ、シルビアの体は花弁ごと忽然と消えた。
女性はさっきまでいたシルビアを抱きしめるように、自分の腕を抱きしめた。
「あなたに全てがかかっているの――」
その言葉は何処か懇願にも似たもので、横を通り過ぎる黒薔薇目的の列の人々は誰一人、見向きもしない。
「うっ!?」
女性は急に小さく呻くと、頭を押さえ、ふら付く足取りでその場を去っていく。
路地に入る手前で何かに気づいたように振り返ると、連なる列へ目を向け女性は凍りついたようにその目を見開いた。
「そっ……んな……どうして? 未来は……何一つ変わってないのに」