黒の浸透 微睡(2)
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「――ちゃん!!」
大きな声が響いたと同時に、シルビアの手が後ろに引かれた。
「ハァハァ……こんな所にいた。」
視界に入ったのは深刻な面持ちで立つ、一人の金の髪が印象的な少年。
彼はシルビアを見るなり、息を整える間もなく口を開く。
「ストライプが大変なんだ! 早く来て!」
「スト……ライプ?」
訳が分からず動こうとしないシルビアの手を強く握ると、少年は駆けだし始めた。
「いいから! 早く!」
「えっ!?」
よろけそうになる体を何とか立て直したシルビアは、少年に握られた右手を見つめ、その必死になっている小さな背に目線を移した。
振り払おうと思えば振り払えるんだけど。
この感じじゃ振り払うのもなんだか可哀そうな……。
でも、もし人違いだったら?
第一、この少年の事、私……。
『――ちゃん! 今日は村外れの花畑に行こうよ!』
短い金の髪を風に揺らし、その楽しさが溢れ出んばかりに輝く茶色の瞳を抑え込むかのように目を細め、ニンマリと口の両端を上げた少年の顔がぼんやりと頭に浮かんだ。
ハッとして前方に焦点を戻せば、同じように金の髪を揺らして走る少年の背。
私、彼の事……。
頭痛を引き起こしそうな鈍い感覚を頭に覚え、シルビアは軽く息を吐いた。
兎に角、この少年が私を確かに見て連れ出したのだから、間違ってはいないのだろう。
一人自分自身で納得させたシルビアは少年に引かれるまま、黙って走り続けた。
同じように並ぶ家々を両脇に余り舗装されていない道を抜け、何度か道を曲がり、少し進んだ所で少年の走る速度が緩んだ。
「しょっ…ハァ…少年……。着いた……の?」
目の前の少年を甘く見ていた。
落ちるどころか、次第に早くなっていく速度にシルビアが本当に少年に引かれて行く形になって、少年よりも息を乱したシルビアは少年が立ち止まると膝に手をつき、彼を見据えた。
お店でもなければ、宿でもない、普通の一軒家のドアの前で立ち止まった少年はキョロキョロと何処か警戒するように左右を見て、徐に玄関のドアを開き、頭を突っ込むと、直ぐ様、シルビアの方に振り返った。
「――ちゃん! 入って!!」
「えっ? あっ……うん」
シルビアが少年に反応するようにドアに近づけば、急がすように背を押され、家の中に入り込む。
玄関から続く廊下は両脇の壁のせいで薄暗かったが、奥の向かいの壁に掛けられた人物画が薄らと見え、それ程長くはないように感じられた。
まだ少し荒い息を整えつつ、辺りを見回していると少年が再び駆けだし、手前の半開きのドアを開け、進んでいく。
「早く! こっちだ!」
少年の入って行ったドアの先はテーブルに椅子、少しの棚が並んでいて、食事スペースのようだった。
でも、そこには少年はいなく、奥に目を向ければ、人2人分のスペースを残し、壁で仕切られた入口が見えた。
「――ちゃん!」
悲痛な声で名前を呼ぶ少年の声がその壁越しに聞こえ、シルビアは急いだ。
「ストライプを……助けて」
少年の眼下には台所の狭い床に敷かれた布の上で横たわる一匹の黒猫。
力が抜け、ぐったりとした体を床に預け、瞼を半分閉じたまま半開きの瞳は瞬きさえしない。
その猫は胴の黒に対して尻尾だけが白黒縞模様なのが印象的だった。
布の色のせいで気付きにくいが、滲みのように広がる一部を辿り、猫を見れば、首元が濡れていることが分かる。
「ねぇ、ストライプって……」
シルビアは誘われるように猫に近づき、しゃがむと猫の首にそっと触れた。
生き物特有の柔らかさとほんのりとした冷たさを感じ、シルビアは素早く手を引く。
赤く濡れた手に確信と共に少しの恐怖が押し寄せた。
よく見れば、猫の足の向きがおかしい。
普通ではあり得ない方に曲がっているのだ。
辺りを見渡せば、猫にばかり集中していたからかさっきまでは気付かなかったが、台所は散々な状態だった。
周りは食器や調理器具が散らばり、幾つかガラスの破片が落ちている。
その中にリボンに通した鈴が見え、シルビアは取ろうと手を伸ばす。
えっ!?
そう思ったと同時にバランスを崩し、床に手をつけた途端、カランッと音を立てた包丁が小さな窓から差し込む日差しで強く光を放った。
目を細めると共に微かに見えた刃先はべっとりと赤色に染まっていた。
「助かるよね?」
ポツリと呟く少年の声にパッと目を向ければ、顔を真っ青にし、額に張り付いた髪の合間から留まることなく点々と汗が流れ落ちていた。
「でも、死んで……」
猫からシルビアに向けられた少年の目は心の動揺を示すように揺れ動き、汗と同じく瞳から零す涙は留まることを知らなようだ。
そんな少年の様子にシルビアの言葉は途中までで終わってしまう。
「知ってる。でも、――ちゃんは元に戻せるじゃないか」
少年は両手を硬く握りしめると、眼光が僅かに強まった。
まただ……。
きっと私の名前を呼んでいるのだろうけど、どうして名前の部分だけはっきりと聞き取れないの?
「しょうね「さっきから……」」
片手で頭を抱え、小さく発したシルビアの言葉を掻き消すように目の前の少年は叫んだ。
「少年少年って! レオだよ!! さっきから変だ――ちゃん。急がないとストライプはもう……。――ちゃん!」
急ぐって何を……。
唐突にシルビアの手を掴んだレオは横たわる猫を傷付けないように優しく、けれども素早く猫にシルビアの手を押しつけた。
手を辿って見上げれば、涙と共に悲しみに満ちた視線を猫に向けたレオの姿があった。
「レオ……」
残像のように脳裏に目の前と同じ金の髪が揺れ、今よりも悲しみの色が少し薄い視線が向けられる。
『ごめんね。約束してたのに……』
”ううん。いいの――”
『ママにばれたらおっかないからさ』
ズキリと小さな痛みが体に走った気がした。
ママ……?
目前の情景が歪み、新たな情景が映し出される。
『猫は嫌いって言ったでしょ! 特に黒猫なんて、不吉ったらありゃしない!!』
足元で怯えるように、小刻みに震えているストライプは体を小さくしつつも、動こうとしない。
否、動けないのか。
ズンッズンッと聞こえそうな程の足音を立て、ストライプに近づく足はスカートからスラリと伸びたものではなく、少し太い。
ギャァーー。
立ち止まった瞬間、蹴りあげられた足はストライプを投げ飛ばし、壁へと叩きつけた。
よろリと立ち上がったストライプは半開きのドアから出ていく。
引きずる足取りと、最後に見えた垂れ下がったままの縞模様の尻尾に、またズキリと痛みが走る。
「ママが、やったの?」
レオの瞳が僅かに揺れた。
チリンッ――
鈴の音が聞こえ、シルビアの体に毛が擦り寄せられる感覚を覚える。
感覚のした方に目を向ければ、黒の胴に、縞模様の尻尾。
「ストライプ……」
もう一度、チリンッーーと鈴の音を鳴らし、「ニャーー」と一鳴きするように口を開けた。
シルビアは猫の頭を一撫ですると、気持ち良さそうに目を瞑る。
「御戻り――」
シルビアの声と同時に、体を覆うように白光した光が色を濃くし、床に横たわるストライプに繋がるように一本の線を描いた。
まるで本体に吸い込まれていくように透けていく毛を擦り寄せた猫の姿はやがて消え、白光した光も消えるとピクリッとストライプの足が動く。
「ストライプ!」
歓喜に満ちた声を上げたレオがシルビアを見据え、流しっぱなしだった涙を漸く拭った。
「ありがとう!!」
泣き笑いの笑顔をシルビアに向けたレオは、ストライプを抱き上げると頬ずりをする。
くすぐったそうに、半開きだった瞳は光を宿し、その縞模様の尻尾をブンブンッと振るいだす。
いつの間にか、おかしな方に曲がっていた足も普通に戻っていた。
「うっうん……」
私は何を……。
ついさっきの事なのに、なぜかはっきりとしない。
私がストライプを?
まさか、そんな奇跡みたいなこと――。
偶々、だよね?
本当は死んでなんて――。
シルビアはズキリッと痛みだした頭を片手で押さえた時だった。
「レオ……!?」
背後で聞こえた女性の声に、我に返ったようにレオとシルビアは同時に振り返る。
「なっにを……。何をやっているの!!」
急に怒号へと変わった声はレオからシルビアに向けられる。
「こんな子と遊んじゃいけないっていくら言ったら分かるの!」
「あの…うっ! 」
徐に女性に握られた腕は逃さないように強く握られ、痛さに顔が歪むシルビアは反論の余地もなく、引かれて行く。
「マ、マ……違うんだ」
何がどうなっているのか整理できないシルビアには、掠れそうな声で女性へ懸命に発するレオの声だけが鮮明に聞こえていた。
ドサッ
地面と体が接触する音と共に腕に掛かっていた圧迫が消えると、今度は膝に走った僅かな痛みにシルビアの顔は一瞬歪んだ。
倒れ込んだ上体をゆっくりと上げれば、ついさっき、レオに押し込まれるようにして入って行った玄関のドアが目に入り、女性に家から放り出されたのだということが明らかだった。
ズキリッ――
体の内側から全体に広がる痛みは相変わらず全体像を見せないが、今度は味もないのに嫌な味が広がっていく感覚が伴った。
フォグ町から逃れる前、母マリスと2人きりで会話をしていた時とどこか似た感覚。
でも、これはもっと自分に向けられた刃のような鋭さを持ったまた別のもので、それがどんな名前かは分からない。
が、一つだけ言い切れることは”心の痛み”であるということだけ。
風もなく寒くなってきたわけでもないのに、苦渋と沈痛を支配する心は広がり、体を冷やしいていく。
「何がどうなって……」
回らない頭は”知らないのに知っている”、”知っているのに知らない”という感覚を打ち寄せる波のように繰り返すだけで、結局、はっきりとした答えには結びつかない。
だが、意識だけ置いて行くように、先行して進む心と体はこの現状を認識して反応していることだけは事実だった。
「ママ! やめてよ!」
レオの叫びに意識を戻せば、閉じていた玄関のドアが無造作に開かれ、再び女性が姿を露わにした。
レオと同じ金の髪を一纏めにした女性は感情を隠すこともなく怒れる形相をシルビアへ向ける。
重なったその茶色い瞳からは怒りのほかに恐怖めいたものが見え隠れしているようで、シルビアは息を呑んだ。
「魔女め!! とっとと消えな! もう来るんじゃないよ!」
罵声と共に、女性はその手に抱えていた大きな木の器の中身をシルビアに向かって投げ捨てた。
無数に上空へ散ったそれらは白い雨のように、シルビアに降り注ぐ。
「いっ……」
肌の露出した部分に接触したそれらは少しの痛みを感じさせた。
白い雨が止み、開いた時同様、無造作に閉められたドアの音がして、シルビアは咄嗟に閉じていた瞼を恐る恐る開けた。
細かく、時折、鋭い角を成す不規則な形をした白いしたものが地面に点在していた。
思い出したように、さっき痛みを感じた部分に目を向けるが、傷はない。
「よかった……」
一つの安堵と共に、引き寄せられるように再びシルビアは地面に点在する白いものへ目を向けた。
欠片のようなそれらを手に取れば、薄く、接触した時に感じた通り少し硬い。
「殻? 」
大きめの欠片に入った皹に気づき、思いついたのはそれだった。
手にとってようくに見てみれば、少しカーブがかっている。
卵の……殻だ。
「――カラドリウスに好かれたようだね」
不意に男の声が響き、辺りを見回すが建ち並ぶ家々のドアは開く様子もなく、今いる道の先にも人影は見当たらない。
ただ、レオの家の玄関の隅に吊るされたハンギングべルだけが、風のせいかカタカタと小刻みに揺れているだけだった。
「気の、せい……!?」
安堵しかけた途端、頭に感じた温もりにシルビアは咄嗟に頭を上げた。
「歌ってあげなさい。 きっと喜ぶ――」
いつの間にか、自分よりもずっと背の高い男が立っていて、そう口を紡ぐと小さく弧を上げた。
向けられた男のやさしい眼差しはシルビアに懐かしいという感覚を呼び起こす。
「あっ……待って!」
もう少し、もう少しで何か思い出せそうなのに――。
シルビアの思いとは裏腹に、男の姿は歪み、空気に透けていく。
そして、男に同期するように、シルビアの体にも何かに引っ張られる感覚が走った。
「どうして! どうしてなの? あの子が何したって……」
何処かの一室が映し出され、声を荒げた女が男の胸を力のない腕で何度も叩く。
「ジュリア……」
そう言って、崩れ落ちる女を抱きしめて受け止めた男はついさっき、シルビアの目の前にいた男だった。
でも、その顔つきは穏やかなものとは程遠く、神妙なものだ。
「この町の噂は本当だったのよ……」
再び景色は変わる――。
同じ一室のようだが、漂う空気が違う感じがした。
ガチャンッ
男はライフルの銃弾を確認すると、先に見たものと同じ神妙な顔つきを前方へ向けた。
目線の先にはさっき男の胸を叩いていた女が背を向けている。
「あの子が助かるなら、私たちはどうなったって構わない」
「でも、彼女は一人になってしまう……」
「疲れているのね? 」
向かいの人物の頬へ女がスッと手を伸せば、その人物は驚いたように一瞬、目を見開いた。
「……」
「今くる未来から逃げて、求める未来が来る保証はない。 そう、あなたの顔に書いてある」
薄ら笑い声を洩らし、女は振り返ると揺るぎない瞳を男へ向けた。
「私たちは必ずあの子が助かる道しか選ばない」
女の意思を汲み取ったのか、男は一つ、頭を上下に振り頷いた。
女が体勢を変えたことで、露わになった向かいの人物はそっと目を閉じ、深呼吸すると、何処かスッキリとした表情で小さく笑みを浮かべたように見えた。
「子を守る親の強さには恐れ入るわね――」
カツッカツッとヒールの音を立て、男と目線を合わせた女の横を通り過ぎるのは、その女の向かいに立っていた人物。
その歩調に合わせるように黒いドレスが揺れ、淀んだ影から姿を現わしたのは金の髪が印象的な女だった。
「やっと、見つけた――」
シルビアの前で立ち止まった女は形のいい唇から安堵の吐息を零すと、透き通るような琥珀の瞳を真っ直ぐと向けた。
『ごめんなさい――』
そう言って、手を差し伸べた女性と重なる。
なのに、それ以外のことは何一つ思い出せない。
何時、何処で……。
真近で見た女は疲れの色を薄ら漂わせていた。
それでも、濁ることのない美しさは見たものに強く印象付けるに違いない。
こんなにきれいな人だったら、忘れそうもないのに――。
思い出せないけれど、確かに会った、その事実だけが脳裏を駆け巡る。
ズキッ――
感情の痛みではない、ハッキリとした激痛が頭を走った。
声も出ない痛さに蹲りそうになるシルビアを、女性は支えるように抱きしめる。
でも、それはあの時のように締め付けるようなものではなく、壊れものを扱うように優しいもの。
「時間がないみたいね。急にこんなことをしてごめんなさい。でも、今は私の声だけに耳を傾けて。他の事考えてはダメよ。直ぐにでも、引き戻されてしまうから――」
頭上で響く女性の声は、その言葉とは裏腹に言い聞かせるようにゆっくりとしたものだった。
脳裏に女性の困った表情がちらつき、ぼやけた周囲の情景が彼女を掻き消していく。
「あなたは……誰?」
ギギギギー―
シルビアが疑問を口にした途端、周囲に低重音が響き渡る。
重い頭で見渡せば、建物が大きく歪み、部屋の片隅にあるランプの揺れに合わせるように、後方の男と女の姿が消えたり現れたりを繰り返しているように見えた。
「シルビア! お願いよ、考えないで!!」
この状況を掻き消すように響く切羽詰まった声に、シルビアはハッとして息を呑んだ。
女はシルビアを一瞥すると、冷静さを取り戻した声で足早に言葉を続ける。
「ここはあなたと私の共通意識の中。私を媒体にしてもあなたと出会える確率は低いから、あなたを媒体にしてあなたとの接点のある地点に潜り込んでいるの。記憶層の深い地点に立っているから、ここでは訪問者は皆、傍観者である必要がある。過去も未来も干渉することは何かしら影響を及ぼしてしまうから。こうやって今、会話することも危険に近い行為だと分かってるけど。女王が耳を手に入れた以上、直接話す方がもっと危険。だから……」
女性は一度、言葉を止めると、シルビアと自分の体が薄れ始めたことに眉を顰めた。
「私はシルビア、あなたのご両親から伝言を預かっているの。『この決断をした私たちをどうか否定しないで。シルビア、何処にいても私たちはあなたを愛してる』」
「えっ?」
どういうこと……。
シルビアが痛む頭を耐えながら頭を上げれば、女性の真剣な眼差しとかち合った。
「過去を知ろうとするのも、未来を流されるまま進むのも、あなたの自由よ。でも、これだけは忘れないで、憎しみからは憎しみしか生まれない。一つの感情に囚われないで。もっと周囲を見て」
言い聞かせるように述べた女性は、フゥと小さく息を吐く。
真剣な面持ちで揺らぎ始めた姿の中、どこか晴れたような印象をシルビアへ持たせた。
「今のは私からの伝言。あなたのご両親のように、私は勇敢じゃないから、決心が着くのにこんなにも時間を要してしまったの。もっと早ければ、こんな手段を使わずに済んだかもしれないわね。本当に、ごめんなさい――」
何を……言っているの?
両親からって……。
訳の分からないことが起こりすぎて、ただ耳を傾けろだなんて、そんなの無理に決まってる。
なのに、考えれば考えるほど、頭痛は激しさを増すばかりで、うまく頭は働いてくれなかった。
視界に映る女性は、眉を顰たまま、いつの間にか顔に笑みを湛えている。
その消え入りそうな笑みは、共に体が揺らぐことも相まってか儚さを強くする。
どうして……そんな顔をするの?
私がそう、させて……る?
『ごめんなさい――』
女が放ったその言葉が何故か脳裏で連呼する。
「何が何だか……もう、分からない。でも……ごめんなさい、ごめんなさいってあなたは謝ってばかり――。私はあなたの名前を知らなければ、あなたとの事を何一つ思い出せないのに――。でも、あなたが私の事を助けてくれていることだけは分かる。謝らなければいけないのは私の方かもしれない。感謝を述べなければいけないのかもしれない」
シルビアはポツリと呟くと、女に抱きついた。
「ごめんなさい! ありがとう! ……幾らだって言うから……消えないで――」
女はその言葉に反応するようにビクリッと僅かに体を震わす。
「どうして……」
「私の前からもう、誰一人消えて欲しくない! 私を知っている人がいるかさえ、もう分からない。でも、あなたは知ってる。そうでしょ?」
ただ、この女性の儚い笑顔の裏に潜む何かに、言い知れぬ恐ろしさを感じて。
今離してしまえば、もう会えないのではないかという不安に追いやられるようにシルビアは女の服を握りしめた。
「消えて欲しくない――か……。そう思ってくれる人がいてくれたなんてね――」
女は震える手を一度ギュッと握りしめると、シルビアの頭に手を載せた。
「”運命”からは逃れられない――。人はそれを知りながら、変えようと足掻く。”先”を知っているものなら、尚更。逃げても逃げても、立ちはだかるのは同じ結末。私はもう疲れてしまったの……。悲しまないで、と言っても無理そうね」
シルビアの瞳から零れた滴を女は優しく指で拭う。
「悲しいばかりが人生じゃないわ。別れがあれば、出会いもある。私はあなたのご両親に出会ったおかげで、一歩、前へ進むことができた。これは私が心の内で望んでいたことなの。きっと、これで何かが変わっていく……はず」
黙ったままのシルビアへ女性は視線を向けた。
揺らぐ視線を隠すように、目を細めて。
「最後ぐらい笑顔を見せてくれてもいいんじゃない?」
そう言い終わるや否やパンッという音がして、薄くなり始めていた体が一気に弾け飛ぶ。
女性諸共、シルビアの体は完全にその場から消えていた。
―――――――――――――
――――
「……ア、シルビア!」
「んっ……」
少しの眩しさに目を開けようとして躊躇するが、顔全体に感じる暖かみにシルビアはパッと目を開けた。
視界に入ったのは窓越しで赤く染まる空。
大きな雲が幾つか浮かんでいて、その隙間から除くように低位置の太陽が強い光を放ていた。
重さを感じる頭を起こすようにむくりと上体を起こしたシルビアはただ呆然と空を見つめた。
「やっと起きたのかい?」
笑いの混じった聞き覚えのある声が背後で聞こえ、振り返ればカウンターで後片付けをしているマリーの姿が目に入った。
「マリーさん! 私……」
そういえば、ここカフェ・ブラウンだ。
シルビアは辺りを見回し、自分が客席に座っていることに気づき、少し青褪め、即座に席を立った。
その様子を見たマリーはハハッと声を出し笑うだけで、怒る素振りもみせない。
「あの……」
その様子が少し心配になり、シルビアはマリーの傍に寄って、怪しまれない程度に顔を覗き込んだ。
が、マリーがその様子に気づかない訳はなく、シルビアへ目線を合わせるとニタリッと笑った。
「シルビアに言わなきゃいけないことがあるんだよ。というか本当は言うか言わないか悩んだんだけどね。なんてったって無許可だからさ……」
「えっあ……はい」
何のことか分からないシルビアはただマリーの次の言葉を待つ。
「シルビアに黒薔薇の買い出しに行ってもらってさ。凄く私は助かったんだ。不吉な花に挙って集まるってもの本当、変な話だけどさ。あれって相当、並ぶって言うじゃないか。だから、疲れたんだろうね。戻って早々、客席でうつ伏せになるくらいにね」
「えっ! 私、そんなことを? す……すみませんでした……」
「『寝てるよ』って客に言われて、驚いたのは事実だけどね。別にそんな事は構わないさ!」
面目のなさに自然と俯いてしまうがチラッとマリーの顔を覗けば、どこにも怒った様子は見受けられなかった。
「えっ……じゃぁ……」
「キューート!! まさに、天使の寝顔!」
急に何時もより大きく叫ぶような声を出し、人差し指を一本立て、握りしめた片腕を空の何処かへ向かって付きあげたマリーをシルビアは呆然と見つめた。
「ってね。言い出した客の一人があの挿絵画家ピーター・ラッカンでね。是非ともシルビアを描かせてくれっていうもんだから、2つ返事で”いいよ”って言っちゃったんだ」
何の反応も見せないシルビアにマリーの表情に不安が滲む。
「ダメ、だったかい?」
「あの、ピーターさんって名前を知らないので、良く分からないんですけど……。有名な方なんですよね? なら、尚更私を描いて頂けたなんて光栄です! だから、そのことは別に問題ないんですけど……」
「ですけど……?」
「私、黒薔薇の買い出し、ちゃんと出来たのでしょうか?」
傘を拡げ、笑顔で差し出す少年ダンテの顔が過り。
スッキリしない天候の中、列を成す人々。
そして、ぶつかった金の髪の女性。
各々の姿がどっと押し寄せるように頭の中に写り込む。
「ああ……。それなら――」
そう言って、マリーはガラスのカップに一輪挿しにした黒薔薇をカウンターに載せた。
水を吸い、瑞々しさを含んだ黒薔薇は八部咲き程度に開花していた。
白の余地がない程に埋め尽くされた黒は真に黒い。
その真黒い花弁は、確かに不吉さを感じさせるには十分だった。
なのに、
「最後ぐらい笑顔を見せてくれてもいいんじゃない?」
そう言って、シルビアへ優しく向ける女性の面影が目前の黒薔薇に垣間見えた気がした。
揺らいだその瞳の奥底に何かを秘めているように、黒薔薇の内側にも何かを秘めて――。
大きな声が響いたと同時に、シルビアの手が後ろに引かれた。
「ハァハァ……こんな所にいた。」
視界に入ったのは深刻な面持ちで立つ、一人の金の髪が印象的な少年。
彼はシルビアを見るなり、息を整える間もなく口を開く。
「ストライプが大変なんだ! 早く来て!」
「スト……ライプ?」
訳が分からず動こうとしないシルビアの手を強く握ると、少年は駆けだし始めた。
「いいから! 早く!」
「えっ!?」
よろけそうになる体を何とか立て直したシルビアは、少年に握られた右手を見つめ、その必死になっている小さな背に目線を移した。
振り払おうと思えば振り払えるんだけど。
この感じじゃ振り払うのもなんだか可哀そうな……。
でも、もし人違いだったら?
第一、この少年の事、私……。
『――ちゃん! 今日は村外れの花畑に行こうよ!』
短い金の髪を風に揺らし、その楽しさが溢れ出んばかりに輝く茶色の瞳を抑え込むかのように目を細め、ニンマリと口の両端を上げた少年の顔がぼんやりと頭に浮かんだ。
ハッとして前方に焦点を戻せば、同じように金の髪を揺らして走る少年の背。
私、彼の事……。
頭痛を引き起こしそうな鈍い感覚を頭に覚え、シルビアは軽く息を吐いた。
兎に角、この少年が私を確かに見て連れ出したのだから、間違ってはいないのだろう。
一人自分自身で納得させたシルビアは少年に引かれるまま、黙って走り続けた。
同じように並ぶ家々を両脇に余り舗装されていない道を抜け、何度か道を曲がり、少し進んだ所で少年の走る速度が緩んだ。
「しょっ…ハァ…少年……。着いた……の?」
目の前の少年を甘く見ていた。
落ちるどころか、次第に早くなっていく速度にシルビアが本当に少年に引かれて行く形になって、少年よりも息を乱したシルビアは少年が立ち止まると膝に手をつき、彼を見据えた。
お店でもなければ、宿でもない、普通の一軒家のドアの前で立ち止まった少年はキョロキョロと何処か警戒するように左右を見て、徐に玄関のドアを開き、頭を突っ込むと、直ぐ様、シルビアの方に振り返った。
「――ちゃん! 入って!!」
「えっ? あっ……うん」
シルビアが少年に反応するようにドアに近づけば、急がすように背を押され、家の中に入り込む。
玄関から続く廊下は両脇の壁のせいで薄暗かったが、奥の向かいの壁に掛けられた人物画が薄らと見え、それ程長くはないように感じられた。
まだ少し荒い息を整えつつ、辺りを見回していると少年が再び駆けだし、手前の半開きのドアを開け、進んでいく。
「早く! こっちだ!」
少年の入って行ったドアの先はテーブルに椅子、少しの棚が並んでいて、食事スペースのようだった。
でも、そこには少年はいなく、奥に目を向ければ、人2人分のスペースを残し、壁で仕切られた入口が見えた。
「――ちゃん!」
悲痛な声で名前を呼ぶ少年の声がその壁越しに聞こえ、シルビアは急いだ。
「ストライプを……助けて」
少年の眼下には台所の狭い床に敷かれた布の上で横たわる一匹の黒猫。
力が抜け、ぐったりとした体を床に預け、瞼を半分閉じたまま半開きの瞳は瞬きさえしない。
その猫は胴の黒に対して尻尾だけが白黒縞模様なのが印象的だった。
布の色のせいで気付きにくいが、滲みのように広がる一部を辿り、猫を見れば、首元が濡れていることが分かる。
「ねぇ、ストライプって……」
シルビアは誘われるように猫に近づき、しゃがむと猫の首にそっと触れた。
生き物特有の柔らかさとほんのりとした冷たさを感じ、シルビアは素早く手を引く。
赤く濡れた手に確信と共に少しの恐怖が押し寄せた。
よく見れば、猫の足の向きがおかしい。
普通ではあり得ない方に曲がっているのだ。
辺りを見渡せば、猫にばかり集中していたからかさっきまでは気付かなかったが、台所は散々な状態だった。
周りは食器や調理器具が散らばり、幾つかガラスの破片が落ちている。
その中にリボンに通した鈴が見え、シルビアは取ろうと手を伸ばす。
えっ!?
そう思ったと同時にバランスを崩し、床に手をつけた途端、カランッと音を立てた包丁が小さな窓から差し込む日差しで強く光を放った。
目を細めると共に微かに見えた刃先はべっとりと赤色に染まっていた。
「助かるよね?」
ポツリと呟く少年の声にパッと目を向ければ、顔を真っ青にし、額に張り付いた髪の合間から留まることなく点々と汗が流れ落ちていた。
「でも、死んで……」
猫からシルビアに向けられた少年の目は心の動揺を示すように揺れ動き、汗と同じく瞳から零す涙は留まることを知らなようだ。
そんな少年の様子にシルビアの言葉は途中までで終わってしまう。
「知ってる。でも、――ちゃんは元に戻せるじゃないか」
少年は両手を硬く握りしめると、眼光が僅かに強まった。
まただ……。
きっと私の名前を呼んでいるのだろうけど、どうして名前の部分だけはっきりと聞き取れないの?
「しょうね「さっきから……」」
片手で頭を抱え、小さく発したシルビアの言葉を掻き消すように目の前の少年は叫んだ。
「少年少年って! レオだよ!! さっきから変だ――ちゃん。急がないとストライプはもう……。――ちゃん!」
急ぐって何を……。
唐突にシルビアの手を掴んだレオは横たわる猫を傷付けないように優しく、けれども素早く猫にシルビアの手を押しつけた。
手を辿って見上げれば、涙と共に悲しみに満ちた視線を猫に向けたレオの姿があった。
「レオ……」
残像のように脳裏に目の前と同じ金の髪が揺れ、今よりも悲しみの色が少し薄い視線が向けられる。
『ごめんね。約束してたのに……』
”ううん。いいの――”
『ママにばれたらおっかないからさ』
ズキリと小さな痛みが体に走った気がした。
ママ……?
目前の情景が歪み、新たな情景が映し出される。
『猫は嫌いって言ったでしょ! 特に黒猫なんて、不吉ったらありゃしない!!』
足元で怯えるように、小刻みに震えているストライプは体を小さくしつつも、動こうとしない。
否、動けないのか。
ズンッズンッと聞こえそうな程の足音を立て、ストライプに近づく足はスカートからスラリと伸びたものではなく、少し太い。
ギャァーー。
立ち止まった瞬間、蹴りあげられた足はストライプを投げ飛ばし、壁へと叩きつけた。
よろリと立ち上がったストライプは半開きのドアから出ていく。
引きずる足取りと、最後に見えた垂れ下がったままの縞模様の尻尾に、またズキリと痛みが走る。
「ママが、やったの?」
レオの瞳が僅かに揺れた。
チリンッ――
鈴の音が聞こえ、シルビアの体に毛が擦り寄せられる感覚を覚える。
感覚のした方に目を向ければ、黒の胴に、縞模様の尻尾。
「ストライプ……」
もう一度、チリンッーーと鈴の音を鳴らし、「ニャーー」と一鳴きするように口を開けた。
シルビアは猫の頭を一撫ですると、気持ち良さそうに目を瞑る。
「御戻り――」
シルビアの声と同時に、体を覆うように白光した光が色を濃くし、床に横たわるストライプに繋がるように一本の線を描いた。
まるで本体に吸い込まれていくように透けていく毛を擦り寄せた猫の姿はやがて消え、白光した光も消えるとピクリッとストライプの足が動く。
「ストライプ!」
歓喜に満ちた声を上げたレオがシルビアを見据え、流しっぱなしだった涙を漸く拭った。
「ありがとう!!」
泣き笑いの笑顔をシルビアに向けたレオは、ストライプを抱き上げると頬ずりをする。
くすぐったそうに、半開きだった瞳は光を宿し、その縞模様の尻尾をブンブンッと振るいだす。
いつの間にか、おかしな方に曲がっていた足も普通に戻っていた。
「うっうん……」
私は何を……。
ついさっきの事なのに、なぜかはっきりとしない。
私がストライプを?
まさか、そんな奇跡みたいなこと――。
偶々、だよね?
本当は死んでなんて――。
シルビアはズキリッと痛みだした頭を片手で押さえた時だった。
「レオ……!?」
背後で聞こえた女性の声に、我に返ったようにレオとシルビアは同時に振り返る。
「なっにを……。何をやっているの!!」
急に怒号へと変わった声はレオからシルビアに向けられる。
「こんな子と遊んじゃいけないっていくら言ったら分かるの!」
「あの…うっ! 」
徐に女性に握られた腕は逃さないように強く握られ、痛さに顔が歪むシルビアは反論の余地もなく、引かれて行く。
「マ、マ……違うんだ」
何がどうなっているのか整理できないシルビアには、掠れそうな声で女性へ懸命に発するレオの声だけが鮮明に聞こえていた。
ドサッ
地面と体が接触する音と共に腕に掛かっていた圧迫が消えると、今度は膝に走った僅かな痛みにシルビアの顔は一瞬歪んだ。
倒れ込んだ上体をゆっくりと上げれば、ついさっき、レオに押し込まれるようにして入って行った玄関のドアが目に入り、女性に家から放り出されたのだということが明らかだった。
ズキリッ――
体の内側から全体に広がる痛みは相変わらず全体像を見せないが、今度は味もないのに嫌な味が広がっていく感覚が伴った。
フォグ町から逃れる前、母マリスと2人きりで会話をしていた時とどこか似た感覚。
でも、これはもっと自分に向けられた刃のような鋭さを持ったまた別のもので、それがどんな名前かは分からない。
が、一つだけ言い切れることは”心の痛み”であるということだけ。
風もなく寒くなってきたわけでもないのに、苦渋と沈痛を支配する心は広がり、体を冷やしいていく。
「何がどうなって……」
回らない頭は”知らないのに知っている”、”知っているのに知らない”という感覚を打ち寄せる波のように繰り返すだけで、結局、はっきりとした答えには結びつかない。
だが、意識だけ置いて行くように、先行して進む心と体はこの現状を認識して反応していることだけは事実だった。
「ママ! やめてよ!」
レオの叫びに意識を戻せば、閉じていた玄関のドアが無造作に開かれ、再び女性が姿を露わにした。
レオと同じ金の髪を一纏めにした女性は感情を隠すこともなく怒れる形相をシルビアへ向ける。
重なったその茶色い瞳からは怒りのほかに恐怖めいたものが見え隠れしているようで、シルビアは息を呑んだ。
「魔女め!! とっとと消えな! もう来るんじゃないよ!」
罵声と共に、女性はその手に抱えていた大きな木の器の中身をシルビアに向かって投げ捨てた。
無数に上空へ散ったそれらは白い雨のように、シルビアに降り注ぐ。
「いっ……」
肌の露出した部分に接触したそれらは少しの痛みを感じさせた。
白い雨が止み、開いた時同様、無造作に閉められたドアの音がして、シルビアは咄嗟に閉じていた瞼を恐る恐る開けた。
細かく、時折、鋭い角を成す不規則な形をした白いしたものが地面に点在していた。
思い出したように、さっき痛みを感じた部分に目を向けるが、傷はない。
「よかった……」
一つの安堵と共に、引き寄せられるように再びシルビアは地面に点在する白いものへ目を向けた。
欠片のようなそれらを手に取れば、薄く、接触した時に感じた通り少し硬い。
「殻? 」
大きめの欠片に入った皹に気づき、思いついたのはそれだった。
手にとってようくに見てみれば、少しカーブがかっている。
卵の……殻だ。
「――カラドリウスに好かれたようだね」
不意に男の声が響き、辺りを見回すが建ち並ぶ家々のドアは開く様子もなく、今いる道の先にも人影は見当たらない。
ただ、レオの家の玄関の隅に吊るされたハンギングべルだけが、風のせいかカタカタと小刻みに揺れているだけだった。
「気の、せい……!?」
安堵しかけた途端、頭に感じた温もりにシルビアは咄嗟に頭を上げた。
「歌ってあげなさい。 きっと喜ぶ――」
いつの間にか、自分よりもずっと背の高い男が立っていて、そう口を紡ぐと小さく弧を上げた。
向けられた男のやさしい眼差しはシルビアに懐かしいという感覚を呼び起こす。
「あっ……待って!」
もう少し、もう少しで何か思い出せそうなのに――。
シルビアの思いとは裏腹に、男の姿は歪み、空気に透けていく。
そして、男に同期するように、シルビアの体にも何かに引っ張られる感覚が走った。
「どうして! どうしてなの? あの子が何したって……」
何処かの一室が映し出され、声を荒げた女が男の胸を力のない腕で何度も叩く。
「ジュリア……」
そう言って、崩れ落ちる女を抱きしめて受け止めた男はついさっき、シルビアの目の前にいた男だった。
でも、その顔つきは穏やかなものとは程遠く、神妙なものだ。
「この町の噂は本当だったのよ……」
再び景色は変わる――。
同じ一室のようだが、漂う空気が違う感じがした。
ガチャンッ
男はライフルの銃弾を確認すると、先に見たものと同じ神妙な顔つきを前方へ向けた。
目線の先にはさっき男の胸を叩いていた女が背を向けている。
「あの子が助かるなら、私たちはどうなったって構わない」
「でも、彼女は一人になってしまう……」
「疲れているのね? 」
向かいの人物の頬へ女がスッと手を伸せば、その人物は驚いたように一瞬、目を見開いた。
「……」
「今くる未来から逃げて、求める未来が来る保証はない。 そう、あなたの顔に書いてある」
薄ら笑い声を洩らし、女は振り返ると揺るぎない瞳を男へ向けた。
「私たちは必ずあの子が助かる道しか選ばない」
女の意思を汲み取ったのか、男は一つ、頭を上下に振り頷いた。
女が体勢を変えたことで、露わになった向かいの人物はそっと目を閉じ、深呼吸すると、何処かスッキリとした表情で小さく笑みを浮かべたように見えた。
「子を守る親の強さには恐れ入るわね――」
カツッカツッとヒールの音を立て、男と目線を合わせた女の横を通り過ぎるのは、その女の向かいに立っていた人物。
その歩調に合わせるように黒いドレスが揺れ、淀んだ影から姿を現わしたのは金の髪が印象的な女だった。
「やっと、見つけた――」
シルビアの前で立ち止まった女は形のいい唇から安堵の吐息を零すと、透き通るような琥珀の瞳を真っ直ぐと向けた。
『ごめんなさい――』
そう言って、手を差し伸べた女性と重なる。
なのに、それ以外のことは何一つ思い出せない。
何時、何処で……。
真近で見た女は疲れの色を薄ら漂わせていた。
それでも、濁ることのない美しさは見たものに強く印象付けるに違いない。
こんなにきれいな人だったら、忘れそうもないのに――。
思い出せないけれど、確かに会った、その事実だけが脳裏を駆け巡る。
ズキッ――
感情の痛みではない、ハッキリとした激痛が頭を走った。
声も出ない痛さに蹲りそうになるシルビアを、女性は支えるように抱きしめる。
でも、それはあの時のように締め付けるようなものではなく、壊れものを扱うように優しいもの。
「時間がないみたいね。急にこんなことをしてごめんなさい。でも、今は私の声だけに耳を傾けて。他の事考えてはダメよ。直ぐにでも、引き戻されてしまうから――」
頭上で響く女性の声は、その言葉とは裏腹に言い聞かせるようにゆっくりとしたものだった。
脳裏に女性の困った表情がちらつき、ぼやけた周囲の情景が彼女を掻き消していく。
「あなたは……誰?」
ギギギギー―
シルビアが疑問を口にした途端、周囲に低重音が響き渡る。
重い頭で見渡せば、建物が大きく歪み、部屋の片隅にあるランプの揺れに合わせるように、後方の男と女の姿が消えたり現れたりを繰り返しているように見えた。
「シルビア! お願いよ、考えないで!!」
この状況を掻き消すように響く切羽詰まった声に、シルビアはハッとして息を呑んだ。
女はシルビアを一瞥すると、冷静さを取り戻した声で足早に言葉を続ける。
「ここはあなたと私の共通意識の中。私を媒体にしてもあなたと出会える確率は低いから、あなたを媒体にしてあなたとの接点のある地点に潜り込んでいるの。記憶層の深い地点に立っているから、ここでは訪問者は皆、傍観者である必要がある。過去も未来も干渉することは何かしら影響を及ぼしてしまうから。こうやって今、会話することも危険に近い行為だと分かってるけど。女王が耳を手に入れた以上、直接話す方がもっと危険。だから……」
女性は一度、言葉を止めると、シルビアと自分の体が薄れ始めたことに眉を顰めた。
「私はシルビア、あなたのご両親から伝言を預かっているの。『この決断をした私たちをどうか否定しないで。シルビア、何処にいても私たちはあなたを愛してる』」
「えっ?」
どういうこと……。
シルビアが痛む頭を耐えながら頭を上げれば、女性の真剣な眼差しとかち合った。
「過去を知ろうとするのも、未来を流されるまま進むのも、あなたの自由よ。でも、これだけは忘れないで、憎しみからは憎しみしか生まれない。一つの感情に囚われないで。もっと周囲を見て」
言い聞かせるように述べた女性は、フゥと小さく息を吐く。
真剣な面持ちで揺らぎ始めた姿の中、どこか晴れたような印象をシルビアへ持たせた。
「今のは私からの伝言。あなたのご両親のように、私は勇敢じゃないから、決心が着くのにこんなにも時間を要してしまったの。もっと早ければ、こんな手段を使わずに済んだかもしれないわね。本当に、ごめんなさい――」
何を……言っているの?
両親からって……。
訳の分からないことが起こりすぎて、ただ耳を傾けろだなんて、そんなの無理に決まってる。
なのに、考えれば考えるほど、頭痛は激しさを増すばかりで、うまく頭は働いてくれなかった。
視界に映る女性は、眉を顰たまま、いつの間にか顔に笑みを湛えている。
その消え入りそうな笑みは、共に体が揺らぐことも相まってか儚さを強くする。
どうして……そんな顔をするの?
私がそう、させて……る?
『ごめんなさい――』
女が放ったその言葉が何故か脳裏で連呼する。
「何が何だか……もう、分からない。でも……ごめんなさい、ごめんなさいってあなたは謝ってばかり――。私はあなたの名前を知らなければ、あなたとの事を何一つ思い出せないのに――。でも、あなたが私の事を助けてくれていることだけは分かる。謝らなければいけないのは私の方かもしれない。感謝を述べなければいけないのかもしれない」
シルビアはポツリと呟くと、女に抱きついた。
「ごめんなさい! ありがとう! ……幾らだって言うから……消えないで――」
女はその言葉に反応するようにビクリッと僅かに体を震わす。
「どうして……」
「私の前からもう、誰一人消えて欲しくない! 私を知っている人がいるかさえ、もう分からない。でも、あなたは知ってる。そうでしょ?」
ただ、この女性の儚い笑顔の裏に潜む何かに、言い知れぬ恐ろしさを感じて。
今離してしまえば、もう会えないのではないかという不安に追いやられるようにシルビアは女の服を握りしめた。
「消えて欲しくない――か……。そう思ってくれる人がいてくれたなんてね――」
女は震える手を一度ギュッと握りしめると、シルビアの頭に手を載せた。
「”運命”からは逃れられない――。人はそれを知りながら、変えようと足掻く。”先”を知っているものなら、尚更。逃げても逃げても、立ちはだかるのは同じ結末。私はもう疲れてしまったの……。悲しまないで、と言っても無理そうね」
シルビアの瞳から零れた滴を女は優しく指で拭う。
「悲しいばかりが人生じゃないわ。別れがあれば、出会いもある。私はあなたのご両親に出会ったおかげで、一歩、前へ進むことができた。これは私が心の内で望んでいたことなの。きっと、これで何かが変わっていく……はず」
黙ったままのシルビアへ女性は視線を向けた。
揺らぐ視線を隠すように、目を細めて。
「最後ぐらい笑顔を見せてくれてもいいんじゃない?」
そう言い終わるや否やパンッという音がして、薄くなり始めていた体が一気に弾け飛ぶ。
女性諸共、シルビアの体は完全にその場から消えていた。
―――――――――――――
――――
「……ア、シルビア!」
「んっ……」
少しの眩しさに目を開けようとして躊躇するが、顔全体に感じる暖かみにシルビアはパッと目を開けた。
視界に入ったのは窓越しで赤く染まる空。
大きな雲が幾つか浮かんでいて、その隙間から除くように低位置の太陽が強い光を放ていた。
重さを感じる頭を起こすようにむくりと上体を起こしたシルビアはただ呆然と空を見つめた。
「やっと起きたのかい?」
笑いの混じった聞き覚えのある声が背後で聞こえ、振り返ればカウンターで後片付けをしているマリーの姿が目に入った。
「マリーさん! 私……」
そういえば、ここカフェ・ブラウンだ。
シルビアは辺りを見回し、自分が客席に座っていることに気づき、少し青褪め、即座に席を立った。
その様子を見たマリーはハハッと声を出し笑うだけで、怒る素振りもみせない。
「あの……」
その様子が少し心配になり、シルビアはマリーの傍に寄って、怪しまれない程度に顔を覗き込んだ。
が、マリーがその様子に気づかない訳はなく、シルビアへ目線を合わせるとニタリッと笑った。
「シルビアに言わなきゃいけないことがあるんだよ。というか本当は言うか言わないか悩んだんだけどね。なんてったって無許可だからさ……」
「えっあ……はい」
何のことか分からないシルビアはただマリーの次の言葉を待つ。
「シルビアに黒薔薇の買い出しに行ってもらってさ。凄く私は助かったんだ。不吉な花に挙って集まるってもの本当、変な話だけどさ。あれって相当、並ぶって言うじゃないか。だから、疲れたんだろうね。戻って早々、客席でうつ伏せになるくらいにね」
「えっ! 私、そんなことを? す……すみませんでした……」
「『寝てるよ』って客に言われて、驚いたのは事実だけどね。別にそんな事は構わないさ!」
面目のなさに自然と俯いてしまうがチラッとマリーの顔を覗けば、どこにも怒った様子は見受けられなかった。
「えっ……じゃぁ……」
「キューート!! まさに、天使の寝顔!」
急に何時もより大きく叫ぶような声を出し、人差し指を一本立て、握りしめた片腕を空の何処かへ向かって付きあげたマリーをシルビアは呆然と見つめた。
「ってね。言い出した客の一人があの挿絵画家ピーター・ラッカンでね。是非ともシルビアを描かせてくれっていうもんだから、2つ返事で”いいよ”って言っちゃったんだ」
何の反応も見せないシルビアにマリーの表情に不安が滲む。
「ダメ、だったかい?」
「あの、ピーターさんって名前を知らないので、良く分からないんですけど……。有名な方なんですよね? なら、尚更私を描いて頂けたなんて光栄です! だから、そのことは別に問題ないんですけど……」
「ですけど……?」
「私、黒薔薇の買い出し、ちゃんと出来たのでしょうか?」
傘を拡げ、笑顔で差し出す少年ダンテの顔が過り。
スッキリしない天候の中、列を成す人々。
そして、ぶつかった金の髪の女性。
各々の姿がどっと押し寄せるように頭の中に写り込む。
「ああ……。それなら――」
そう言って、マリーはガラスのカップに一輪挿しにした黒薔薇をカウンターに載せた。
水を吸い、瑞々しさを含んだ黒薔薇は八部咲き程度に開花していた。
白の余地がない程に埋め尽くされた黒は真に黒い。
その真黒い花弁は、確かに不吉さを感じさせるには十分だった。
なのに、
「最後ぐらい笑顔を見せてくれてもいいんじゃない?」
そう言って、シルビアへ優しく向ける女性の面影が目前の黒薔薇に垣間見えた気がした。
揺らいだその瞳の奥底に何かを秘めているように、黒薔薇の内側にも何かを秘めて――。
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