黒の浸透 静寂(3)
この日常に不満があるわけではない。
シルビアの新聞を握る手が強まる。
新聞の束に向けられた視線をドアへ移しながら、深く息を吸い、吐き出すとシルビアはカフェを後 にした。
時折、吹く風がウエスト通りの乾いた土を小さく撒き散すが、歩調を緩めることなく、更に西へ向 かって歩く。
数分もしないうちに、見えてきたのは森の中にある一本道。
うっそうと生い茂る木々に囲まれているため、日中でも薄暗いこの道は、西の町村と首都を繋いで いる。
カフェ・ブラウンに来る客もこの道を利用する者が多いが、今は人一人見当たらない。
それでもシルビアは警戒するように、辺りを見渡すと、西に通じる道ではなく、森の中へ入って行 った。
外観からは草や木で覆われ、道が無いように見えた場所も、一歩入れば道が続く。
かつて使われていたであろう道だけあって、草は歩くのがままならないほどに生い茂っている。
そんな道も、シルビアは慣れた足取りで進んだ。
この道に対する不安は全くない。
それもそのはず、シルビアはこの先に何があるのかを知っていた。
何度か通いつめていたから。
しばらくして、視界を遮っていた最後の草を掻き分けたシルビアは、これまでとは違う林の姿を目 の当たりした。
”静寂”という言葉が適しているのかもしれない。
周りの木々に囲まれるように、一本の巨木がそびえ立ち、その木から侵食しているかのように苔が 広がっている。
木の隙間から入る木漏れ日が、地面の、そして木の苔を照らし、この空間が鮮やかな緑だというこ とを教えていた。
この光景を目の当たりにし、シルビアは愕然とした。
「どう……して、どうして、満たされない?」
フォグ町を探していたとき、偶然にも見つけたこの場所は、確かに私の心を満たしてくれた。
木の生え具合、苔、時折、吹き付ける穏やかな風。
「何も変わっていないのに」
シルビアは辺りを見渡すのを止め、中央の巨木にもたれるように座った。
その時だった。
「本当に何も変わってないと思う?」
静かな面持ちの声が、すんなりとシルビアの耳に入ってきた。
唐突に聞こえてきた声に、頭を上げると、六・七歳くらいの少女の姿があった。
木の枝に、器用に腰をかけた少女は、自分の出した問いに対する答えを待つかのように、シルビア をじっと見つめた。
「ビジィ……」
シルビアは、少女の名を呼んだきり、黙っていた。
何処かが違うと感じていても、それが何かははっきりと答えられなかった。
それにしても、ビジィはいつも、難しいことを聞く。
私より十歳は年下の少女が、こんな風に会話を始めるのはいつもだった。
随分と昔に、人の出入りがなくなったであろう場所に通いつめるぐらいだから、幼いなりに何か悩 みがあるのだろう。
そんなことを考えていると、ビジィが見兼ねたのか話し始めた。
「人が変わったんだよ。この林は何も変わってない。だったら、答えは一つ。見る人自身が変わった ということ」
「じゃ……あ、この場所に始めてきたときより、私が変わったというの?」
シルビアが困惑ぎみに問うと、ビジィは大きく「うん」と、頭を上下に振った。
あのときより変わったこと――フォグ町と家族の行方を追わなくなったこと。
変化といえば、これぐらいしか思い当たらなかった。
でも、それは自分自身で納得したはずだった。
始めはマリーさんに迷惑だから、そう思って行方を追わなくなったのも事実だけど、手がかりを何 一つ見つけることが出来なかったのも事実だったから。
「心底にある気持ちは行動にでるものだね」
ビジィは地面を見ながら、終始、変わらない声でいう。
一瞬、何を言っているのかよく分からなかったが、ビジィの目線の先に答えはあった。
シルビアの左手の中で、くしゃくしゃになった新聞。
理性を越えた行動は本心に近い。
だとするならば、私はどうすればいいのだろう。どうすれば、真実を見、誰も苦しまないですむの だろう。
そもそも――
「真実をどうやって追えばいいっていうの!」
口をついて出た言葉に、シルビアは手で口を塞いだ。
「シルビアは真実が知りたいんだ?」
何も驚きもせず、ビジィは足をバタつかせていた。
その様子を見て、安心しつつもシルビアは少し小さく答える。
「そうに決まってるじゃない。フォグ町や家族のことを知りたい」
「でも、シルビアの知りたいのは真実じゃない」
え?
ビジィは淡々と話す。
「前に言ってたじゃない。ラナ町の近くにフォグ町があったって。その様子じゃ、行ってないんで しょ?」
「それは……」
「それはシルビアが求めているものが、何事もなかった町と家族の姿。シルビアの理想であって真実 じゃない」
私の理想……
「じゃあ、私はどうすればいいの?」
ビジィは空を見ながら、微笑む。
「決めるのはシルビアだよ。ただ一つ言えることは、”知らなくても良い真実がある”ということ。 知る必要のある真実だったら、放って置いても向こうからやってくるはずだから」
そう言うと、ビジィは枝から飛び降りた。
スタッという音と共に、綺麗に着地すると、再び話し始める。
「それと、過去に捕らわれない方が良いと思う。これからやってくるのは未来であって、過去では ない。シルビアには未来があるんだから……」
シルビアは地上で見たビジィの茶色い瞳の奥に、何処か寂しさを感じずにはいられなかった。
「ビジィにも未来はあるじゃない!」
自分よりもビジィの事が気になって、シルビアは強い口調になっていた。
どんな難解な問題にも、分かったように話すのに、こういうことに関しては返事がない。
ただ、微笑んでいるだけだった。
しばらくして、ビジィは長い黒髪を揺らすように、林の出口へ体を向けた。
「私ね。今度のお祭りで、歌を歌うことになったの。観に来てね。あと、明日はきっと雨になるから 気をつけて」
ビジィは相変わらずの、単調振りで話すと、走っていってしまった。
「ちょっ……」
シルビアは止めようと、立ち上がるが、すでにその姿は消えていた。
「まったく、いつもああなんだから」
シルビアは溜め息混じりに、呟いた。
空は日が陰り、青から赤に変わりつつあった。雲は一つも見当たらない。
そんな情景に、本当に雨が降るのかと、疑いつつ、視線を変えた先にあったもの。
それは、初めて見つけたときと同じとは言い切れないが、確かに私の心を満たす”静寂”という名 の林の姿だった。
シルビアの新聞を握る手が強まる。
新聞の束に向けられた視線をドアへ移しながら、深く息を吸い、吐き出すとシルビアはカフェを後 にした。
時折、吹く風がウエスト通りの乾いた土を小さく撒き散すが、歩調を緩めることなく、更に西へ向 かって歩く。
数分もしないうちに、見えてきたのは森の中にある一本道。
うっそうと生い茂る木々に囲まれているため、日中でも薄暗いこの道は、西の町村と首都を繋いで いる。
カフェ・ブラウンに来る客もこの道を利用する者が多いが、今は人一人見当たらない。
それでもシルビアは警戒するように、辺りを見渡すと、西に通じる道ではなく、森の中へ入って行 った。
外観からは草や木で覆われ、道が無いように見えた場所も、一歩入れば道が続く。
かつて使われていたであろう道だけあって、草は歩くのがままならないほどに生い茂っている。
そんな道も、シルビアは慣れた足取りで進んだ。
この道に対する不安は全くない。
それもそのはず、シルビアはこの先に何があるのかを知っていた。
何度か通いつめていたから。
しばらくして、視界を遮っていた最後の草を掻き分けたシルビアは、これまでとは違う林の姿を目 の当たりした。
”静寂”という言葉が適しているのかもしれない。
周りの木々に囲まれるように、一本の巨木がそびえ立ち、その木から侵食しているかのように苔が 広がっている。
木の隙間から入る木漏れ日が、地面の、そして木の苔を照らし、この空間が鮮やかな緑だというこ とを教えていた。
この光景を目の当たりにし、シルビアは愕然とした。
「どう……して、どうして、満たされない?」
フォグ町を探していたとき、偶然にも見つけたこの場所は、確かに私の心を満たしてくれた。
木の生え具合、苔、時折、吹き付ける穏やかな風。
「何も変わっていないのに」
シルビアは辺りを見渡すのを止め、中央の巨木にもたれるように座った。
その時だった。
「本当に何も変わってないと思う?」
静かな面持ちの声が、すんなりとシルビアの耳に入ってきた。
唐突に聞こえてきた声に、頭を上げると、六・七歳くらいの少女の姿があった。
木の枝に、器用に腰をかけた少女は、自分の出した問いに対する答えを待つかのように、シルビア をじっと見つめた。
「ビジィ……」
シルビアは、少女の名を呼んだきり、黙っていた。
何処かが違うと感じていても、それが何かははっきりと答えられなかった。
それにしても、ビジィはいつも、難しいことを聞く。
私より十歳は年下の少女が、こんな風に会話を始めるのはいつもだった。
随分と昔に、人の出入りがなくなったであろう場所に通いつめるぐらいだから、幼いなりに何か悩 みがあるのだろう。
そんなことを考えていると、ビジィが見兼ねたのか話し始めた。
「人が変わったんだよ。この林は何も変わってない。だったら、答えは一つ。見る人自身が変わった ということ」
「じゃ……あ、この場所に始めてきたときより、私が変わったというの?」
シルビアが困惑ぎみに問うと、ビジィは大きく「うん」と、頭を上下に振った。
あのときより変わったこと――フォグ町と家族の行方を追わなくなったこと。
変化といえば、これぐらいしか思い当たらなかった。
でも、それは自分自身で納得したはずだった。
始めはマリーさんに迷惑だから、そう思って行方を追わなくなったのも事実だけど、手がかりを何 一つ見つけることが出来なかったのも事実だったから。
「心底にある気持ちは行動にでるものだね」
ビジィは地面を見ながら、終始、変わらない声でいう。
一瞬、何を言っているのかよく分からなかったが、ビジィの目線の先に答えはあった。
シルビアの左手の中で、くしゃくしゃになった新聞。
理性を越えた行動は本心に近い。
だとするならば、私はどうすればいいのだろう。どうすれば、真実を見、誰も苦しまないですむの だろう。
そもそも――
「真実をどうやって追えばいいっていうの!」
口をついて出た言葉に、シルビアは手で口を塞いだ。
「シルビアは真実が知りたいんだ?」
何も驚きもせず、ビジィは足をバタつかせていた。
その様子を見て、安心しつつもシルビアは少し小さく答える。
「そうに決まってるじゃない。フォグ町や家族のことを知りたい」
「でも、シルビアの知りたいのは真実じゃない」
え?
ビジィは淡々と話す。
「前に言ってたじゃない。ラナ町の近くにフォグ町があったって。その様子じゃ、行ってないんで しょ?」
「それは……」
「それはシルビアが求めているものが、何事もなかった町と家族の姿。シルビアの理想であって真実 じゃない」
私の理想……
「じゃあ、私はどうすればいいの?」
ビジィは空を見ながら、微笑む。
「決めるのはシルビアだよ。ただ一つ言えることは、”知らなくても良い真実がある”ということ。 知る必要のある真実だったら、放って置いても向こうからやってくるはずだから」
そう言うと、ビジィは枝から飛び降りた。
スタッという音と共に、綺麗に着地すると、再び話し始める。
「それと、過去に捕らわれない方が良いと思う。これからやってくるのは未来であって、過去では ない。シルビアには未来があるんだから……」
シルビアは地上で見たビジィの茶色い瞳の奥に、何処か寂しさを感じずにはいられなかった。
「ビジィにも未来はあるじゃない!」
自分よりもビジィの事が気になって、シルビアは強い口調になっていた。
どんな難解な問題にも、分かったように話すのに、こういうことに関しては返事がない。
ただ、微笑んでいるだけだった。
しばらくして、ビジィは長い黒髪を揺らすように、林の出口へ体を向けた。
「私ね。今度のお祭りで、歌を歌うことになったの。観に来てね。あと、明日はきっと雨になるから 気をつけて」
ビジィは相変わらずの、単調振りで話すと、走っていってしまった。
「ちょっ……」
シルビアは止めようと、立ち上がるが、すでにその姿は消えていた。
「まったく、いつもああなんだから」
シルビアは溜め息混じりに、呟いた。
空は日が陰り、青から赤に変わりつつあった。雲は一つも見当たらない。
そんな情景に、本当に雨が降るのかと、疑いつつ、視線を変えた先にあったもの。
それは、初めて見つけたときと同じとは言い切れないが、確かに私の心を満たす”静寂”という名 の林の姿だった。