黒の浸透 現実(1)

 ガチャンッ!
 何?
 シルビアは何処からか聞こえてきた音と共に、立ち上がり壁に寄った。
 視界に入ったのは茶色の背景にぽつんと一つだけ置かれた棚とその上に載せてある花瓶。
 花瓶には赤い花が一輪刺さっていて、葉がゆっくりと揺れている。
 シルビアは頬に伝わる生暖かい空気を感じ、空気の出所らしき方を見た。
 窓に取り付けられているカーテンが風で揺れているのが分かる。
 何処かの一室?
 確か、私は外で眠り込んでしまったんじゃ……
 ……
「同じ茶だってのに、座る場所で値段が変わるなんて聞いていない!」
 急に耳に入ってきた怒鳴り声が、シルビアにそれ以上思い出すのを止めさせた。
 窓の外からだ。
 シルビアは様子を見ようとして、立ち止まってしまう。
 ここは……

 シルビアの目に映ったのは、円柱型をした建物が三つそびえ立ち、それを守るように巨大な 壁、更に取り囲むように密集した家々の姿だった。
 白の要塞。
 壁を含め、今見て取れる円柱型をした建物がそう呼ばれることを以前、マリスに聞いたこと があった。
 その巨大な建造物は太陽の光を照り返すほど白く、平行に並んだ円柱の中央に位置する建物 は両側の三倍程の太さがある。
 ただ大きいだけで権力を誇っているわけではない。
 建造物の周囲を囲う壁から内側は、幾重にも罠が仕掛けられていて、これまでに侵入者を許 したことがないという。
 だから、フォリス国を統治する女王ハイネ・ロドニーの住む城を「白の要塞」と人々が口を 合わせていうのだと言っていたのを思い出した。

「ここは首都ロドニー」
 シルビアは呟きながら言うと、窓の下を覗くように見た。
 騒ぎが起こっている。
 一人の男を避けるように、小走りに行き交う人々。
 遠くからは子供が楽しそうにはしゃいでいる声が聞こえるというのに、ここ一帯は何ともいえ ない嫌な空気が漂っているようだ。
「お客さん! 困るんだよね。商売道具を壊されちゃ……」
 シルビアには丁度、死角になっていて見えなかったが、男に向かい強い口調で話す女性の声が 聞こえた。
「はあ? 私の国じゃあ、どこに席を取ろうが注文した分しか払わない。絶対に席代なんて払わ ないからな!」
「……仕方ないね、分かったよ。今日のところはカウンターで飲んだということにしておくよ。 でもね、お客さん。この国じゃ、どのカフェに行こうが席で金額が変わるってことを理解してお くことだね。どこの国から来たか知らないが、この国には国の、店には店の決まりがあるんだよ!」
 これ以上言っても、らちが明かないと思ったのか、渋々、男の言い分を聞き入れたようだ。
 男はその言葉を聞き終わる間もなく、お金を地面に投げつけ、イライラした様子で去っていっ た。
「困ったもんだ」
 女性は溜め息混じりに言う。
「マリー。後は僕達が片付けておくから、その服、着替えてきなよ」
 シルビアのいる部屋の下から他の男の声がした。
「お客に、そんな真似はさせられないよ」
「いいから。僕たちはいつもマリーにはサービスして貰ってるからね。それに、もうそろそろ混 み始める時間だろ?」
「う……ん。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。でも、今度着たときにはコーヒー一杯サービ スさせてもらうからね」
 その後、数人の男たちが出てきて、お金と割れた破片を拾い始めた。
 シルビアが窓からその様子を見ていると突然、今まで聞こえていた女性の声が近くでする。
「あら。ようやく、目覚めたのかい。無事で何よりだよ」
 無事……?
 そうだ、私は……
 シルビアが振り返ると、真直ぐ伸びた茶色の髪を前で一つに束ね、服のあちこちに茶色の染み をつけた女性がドアを開けて立っていた。
「あの……」
 シルビアが言いかけた途端、女性は分かったように話し出した。
「あっあの客かい? 偶にいるんだよね。自分の国の事情と比較して、理に叶わないと自分の国 での決まりを押し付けようとする客。特に、機械工業だの製鉄業だのってこの国の産業技術が発 展するにつれ、ああいった客が増えている。本当に、困ったもんだよ。それに、あの客ときたら 私の商売道具であるティーカップを投げつけてきたんだ」
「違うんです! 助けてください。父も母も皆、殺されて……。私、必死で……」
 助けて欲しい。あれは明らかに殺人だった。
 すべて話せば騒ぎになり、犯人も捕まる。
 そのことだけがシルビアの頭の中を駆け巡っていて、声を裏返していた。
「お……落ち着いてちょうだい! 深呼吸して。それから、ゆっくり話してごらん」
 唐突に顔色を変えて話し出したシルビアに少し戸惑った様子を見せたが、女性はなだめるように 話を聞く姿勢を見せた。
 シルビアは女性の言うとおり、改めてフォグ町で起きた出来事を一部始終、話す。
 途中、女性は何度か不思議そうな表情を浮かべていたが、それでもシルビアの話に頷き返してく れるので、最後まで話し続けた。
 しかし、シルビアの話を聞き終わると、女性は奇怪なことを口にする。
「おかしいね。私がお嬢さんを見つけてから、もう三日になる。それなのに町一つが一気に無くなる ような大事件が新聞にも載らない。噂が一つも流れてきていない」
「じゃ……じゃあ、父や母も殺されていないということですか?」
 投げ掛けるようにシルビアは言った。
「それは断定できないが、事件としてどこにも持ち上がっていないことは事実だと思う。でも、私が お嬢さんを発見したとき、大きな物に体を打ちつけたような痣が広がっていたし、首にだって、薄っ すらとだが締め付けられたような痕が残っていた。だから、そんなに大きな事件ではなくても、何か 事件があったということは確信できる」
「そんな……。事件になってないなんて嘘でしょ! 嘘だと言ってください! 私は、目の前で父の 胸に矢が刺さり、ぐったりとした姿を見たんです。男たちだって私を殺すか殺さないかの相談まで していた……」
「まあ、私の知る限りではそんな事件は無かったということなんだよ。あまり、お勧めはできないが 警察に行って聞いてみるのもいいかもしれないね。何か事件があったら、町に設置された警察同士で 直ぐに電報のやり取りをしているらしいから、情報は手に入ると思うよ」
 嘆くシルビアに溜め息を付きながら、女性はそう言った。
「今から警察に行ってみます。場所を教えてください!」
 シルビアは気が動転していたが、こんな現実を認めたくなくて必死になっていた。
 女性はあまり気乗りしない様子で警察の場所を言うと、自分はマリー・ブラウンだと名乗った。
「もし何かあったら……」
 マリーがすべて言い終わることなく、シルビアは話し出す。
「私の名前はシルビア・ヴァーチュデズです。マリーさん、本当に有難うございました」
 シルビアは感謝の気持ちを込めて、深々と礼をすると、即座に警察に向かって走り出していた。
 知らない家。知らない道。知らない人々。
 息を荒立てて、マリーに教えてもらった道をシルビアは駆け抜ける。
 ドクンッ……ドクンッ……
 心臓の高鳴る音が体中からする。
 何を私は動揺しているの?
 有り得ないじゃない。何も起きていなかったなんて……。