黒の浸透 崩壊(2)

 一方向から入る微かな光が辺りの様子を薄っすらと映し出し、シルビアに全てのものを九〇度 回転させて見せていた。
 相変わらず、咳は止まらないが意識がはっきりしていることは確かだった。今まで感じられな かった木の焼ける鼻をつまらせるような匂い、煙で目がしみる感覚、狭い空間にいる圧迫感、頬 や手、体全体から伝わる床の冷たさ、足音がわかる。
 私は、横たわっている。ベットの下で隠れて……
 えっ?
 シルビアが腕を握られたと思った次の瞬間、頭の後ろに強い衝撃が走った。ベットの下から勢 いよく引き吊り出され、壁に投げ飛ばされたのだ。
「こんなところに隠れていたのか、まったくおまえらは賢いというかなんというか」
 溜め息混じりに言い捨てると、その人物はもうろうとしているシルビアに容赦することもなく、 片手で首を締め付け身動きをとれないようにする。
 男だ。窓から射し込む月明かりがそれを教えた。色までは分からないが、癖のある長い髪を後 ろで一つに束ねている。
 私を刺すためなのかもしれない。
 男が振り上げたもう片方の手には短剣が握られている。その腕には、これから人を殺す人間には 似合わず、ロザリオが巻きつけてあった。
 不可解さはあったが「なぜ、殺されなければならない?」という疑問が強く、シルビアの脳裏 を駆け巡っていた。
 必死で抵抗するシルビアに、男は物言わぬ顔で振り上げていた手を下ろす。
 ……
 シルビアは目前にある恐怖から逃げるように瞼を堅く閉じ、身を縮めていた。
「ちょっと、待ってください。ライルさん!」
 ドアの開け放たれる音と同時に、別の男の声がした。
 ……
 ……だから、なのか何も起こらない。体の何処にも痛みを感じない。
 もしかして、もう既に私は死んでいるから?
 シルビアは何も起きない現状を理解しようと、瞼をゆっくりと開く。
 そこには、不満じみた様子でライルと呼ばれた男が静止していた。男の視線の先を見ると、鋭く 光った剣先をシルビアの胸の辺りに刺す寸前のところで止まっていた。
「なんだ! アルバート、やつらの見方をする気か?」
 突然、止めに入った眼鏡を掛けた男、アルバートにライルは怒りを露にする。
「違いますよ! 彼女をようく見てください。人間じゃないですか」
「え? そんなばか……」
 ライルはシルビアの瞳を覗き込み、言葉に詰まった。信じられない様子で数回、彼の腕に巻き つけられたロザリオとシルビアの瞳を覗き込んだ後、シルビアの首を閉めていた手を離し、無言 でアルバートの方へ歩いていく。
「おい! どうなってんだよ」
「それが、僕にも予想だしなかったことで。何が何だか……」
「アルバートの能力を疑うわけじゃないが、おまえもこいつもこの歪んだ空間に影響を受けてい るんじゃないのか?」
 ライルはアルバートに突きつけるようにロザリオをかざせて見せた。
「そんなことはないです。ここに来るまでの間、しっかりと気配を感じることができました。それ に、この十字架からはしっかりと力が放たれているじゃないですか」
 アルバートは突きつけられたロザリオを指差した。
「俺には分からないから……この十字架だけが頼りだといつも言っているだろ」
「その頼りにしている十字架で確認しなかったのはライルさんですよね」
 動揺しているのかうろたえた様子でライルは言う。
「と……とにかく、これまでに例がないってことだろ?」
「……はい」
「じゃあ、やつらの発展系という可能性だってあるってことじゃないか」
「その可能性は低いかと……」
 やつらってなに? 何の話をしているの?
 もし、私があの人たちのいうやつらだと断定されてしまえば、今度こそ殺されるということ?
 そんなのは絶対に嫌! 何も分からないまま死にたくない。
 シルビアは呼吸を整えると、ドアを見た。
 アルバートという男が入ってきたドアだ。この部屋は入口も出口もあそこ、一つしかない。二人 の男は、シルビアを気にする様子もなく、話に夢中だった。男たちの方がドアに近いのは確かだったが、 シルビアに残された脱出手段はあのドアから逃げるという方法だけだった。
 シルビアは息を殺し、窓から差し込む光を遮らないよう、ゆっくりと壁伝いにドアへ近づく。
 ――
「この部屋も大分、煙たくなってきたんじゃ……」
 ドアの前まで来ていたシルビアは男たちの会話が途切れると同時に、背後に強い視線を感じた。
 み……見つかった――
「おい! 何処にいくつもりだ」
 ここで止まってはいけない。前に進まなければ……
 シルビアの腕に男の手が触れたが、ドアを一気に開き、廊下に出る。
 廊下は一変としていた。煙が充満していて、前が何も見えないのだ。
 シルビアは追いつかれないように、必死で一階に繋がる階段を目指すが、前方からも足音が聴こえる。
「アル! ライ! この家、もう出ないと、私たちまで死ぬわよ。急いで!」
 女の声?
 近づいてくる。きっと、あの男たちの仲間だ。
 何処か違うところに隠れないと……
 !?
 シルビアは壁沿いに寄った途端、後ろに倒れこんでしまう。
「何の音?」
 と女の声。
「今の音はメアリさんですか?」
 仲間同士で見えない視界の中を会話しながら、音の原因を探っているようだ。
 シルビアは直ぐに、開いていたドアを閉め、箪笥でドアを塞ぐ。
「メアリ! そっちに誰か人が通らなかったか?」
「いえ、誰もここを通った様子はなかったけど……」
「けど、何なんだよ」
「何か物音がしたのよ」
「じゃあ、まだこの辺りにいるってことか!」
「まだ、生きているのがいたの? 今は、やつらを探るより私たちがここを脱出することが先決よ。 初めに放った火の回りが、思ったより速いの」
「そうですよ。ライルさんの気持ちもわかりますが、今は僕たちの命を優先すべきです!」
「わ……分かったよ」
 壁伝いに聞こえていた声は、廊下を走っていく足音と共に消えていった。
 シルビアは男たちの声に耳を澄ますのをやめ、箪笥で塞いだドアの隙間から、黙々と吹き込む煙と 赤くちらつく炎を見た。それは、二階まで火が昇ってきていることを物語っていた。
 改めて、とっさに入った部屋を見渡す。
 中央にはベッド、その奥には壁に向かうように置かれた机、その両側には窓と本棚があった。偶然 にも入ったこの部屋は、シルビアの見慣れた自分の部屋だった。
「もう、逃げ場はないということかな」
 落ち着き払っているが悔しさの入り混じった声でそう呟き、ベッドに座り込む。
 目の前には壁しかないが、ただそこをシルビアは見つめていた。

 夕食のとき、何処か違和感を感じていた。
 すぐに、そのことを伝えていればお父さんは助かっていたかもしれない。
 ベッドの下に隠れていたときだって、動揺している場合ではなかったんだ。
 現実から逃げている場合ではなかったんだ。
 そうすれば、お母さんだって死なずにすんだ。
 きっと、皆死なずにすんだ――

 シルビアは自分自身に何の力もない、あの男たちの一人にも傷さえ負わせることができないこと を目の当たりにしていたが、後悔が募るばかりだった。
 シルビアの頬に涙が伝う。
 マリスやクロード、ラリマンたちが何の理由で殺されなければならなかったのかという謎だけが 残され、やがて、シルビア自身も死ぬのだという悔しさは胸を締め付けるようだった。
 既に、入口のドアには火が燃え移っている。家を支えていた柱が焼け崩れる音も次第に激しくな っていた。
 成す術のないシルビアはただ時が過ぎるのを待つ。
 ……
 バキッ――
 木の折れる物凄い音が響いたかと思うと、シルビアは激しい揺れと共に、座っていたベッドに倒 れこんでしまう。
 一瞬、宙に浮く感覚がしたが、次には体全体に強い衝撃が走った。
   うっ!
 少しずつ、体を覆いつくすように痛みは広がっていった。
 シルビアは痛さを感じることで、自分はまだ生きているのだと認識できた。
「い……いきている」
 ふらつきながら、ゆっくりと立ち上がる。
 前方に見えたのは、かつての自分の家が瓦礫の山と化し、更に全てを消し去るように火が燃え盛る 姿だった。
 シルビアは周囲を見回した。
 あの男たちの姿は何処にもない。
 木の焼ける音と家を取り囲む木々が風で揺れる音だけが周囲を覆っていた。
 しばらくして、シルビアは思い立ったように、燃え盛る家に背を向け走り出した。
 ぼろぼろの体を引きずりながらではあったが、気力だけで走り続けた。
 人のいるところを目指して――

 どれぐらい走ったのだろう。
 期待は薄かったが、思っていた通りフォグ町も、町の様子を留めていなかった。
 家という家は崩れ去り、人一人の姿も見られなかった。
 空を赤く染めるほど、家が激しく燃えているというのに騒ぎにならないのはおかしいと思っていた。  そんなフォグ町を抜けてから、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
 
 悲しみにも絶望にも似た感情がシルビアの心を取り巻いていたが、不思議と涙は出なかった。
 肌に触れる空気が暖かい。
 夜の冷たかった空気も、次第に暖かさを増しているようだった。
 空が明るくなってきたせいか、辺りの様子が少しずつはっきりしてくる。
 道なき道を進み、いつの間にか開けた場所にきていたことが分かった。
 シルビアは近くにあった壁にもたれるように、座り込む。
 安心とは言い切れないが、シルビアにはこれ以上、動く力は残っていなかった。
 すべて夢であってほしい……
 シルビアの視界は襲りくる深い眠りと共に暗くなっていった。