黒の浸透 崩壊(1)

 昼間とは打って変わって、空はどんよりと重い。光の入る隙間を埋めるように雲が 敷き詰められている。
 いつもなら、ここからは町全体が見渡せるというのに、今見えるのは、白い空間に 溶け込み始めた林だけ。日が暮れ始めたせいか、霧が一層深く見えた。
 喉につっかえるような感覚がシルビア・ヴァーチュテズを襲った気がしたが、それは 直ぐに消え去る。
 シルビアは溜め息混じりに視線を窓からドアの前へ移した。僅かに開いた窓から吹き込む風 が、シルビアの黒い髪を揺らす。
 ドアを開け、笑顔で「お母さん、今日の調子はどう?」そう言うだけなのに、それ が出来ないでいたのだ。

 シルビアの母マリスがこの部屋、いやこの家から外出しなくなったのは数ヶ月前。
 それ以来、元気に外へ出て町の人々の手伝いをしていたマリスの面影はなく、マリ スの中に住みついていた病が少しずつ、体を蝕んでいるのが誰の目から見ても明らかだった。
 一二年前、シルビア達がフォグ町に越して来たのも、マリスの原因不明の病を治すためだ。
 ここへは希望を抱いて、やってきたが、来た当初、シルビアは驚いた。
 一八世紀も終わりに近いというのに、この町だけが取り残されたように寂れていた。
 町にあるのは教会、医者が一人しかいない病院、日用品を売っている店が二・三件、あ とは町の人々の住まい。
 首都から離れれば離れるほど、こういう町が多いという。
 こんな所で、マリスの病が回復に向かうものかとシルビアはよく、父クロードを攻めたものだった が、「人間は自然に近い環境の中で暮らすのが一番だ」と言うばかりで、当の本人は シルビアとマリスを残し、町から離れた大学の研究室でこもりきりとなった。
 だが、シルビアには数日たってクロードの言っていたことが分かった。以前の町では、 あまり外出することのなかったマリスが頻繁に外へ出かけるようになったのだ。

 しかし、それも束の間の幸せだったのかもしれない。
 今では、これまで以上にお母さんの様態は……。
 出来ないのならば、いっそのこと今日は会うのをやめようか、とも思う。使用人のラ リマンさんは今日は調子が良さそうだと言っていた。
 でも、自分の目で見ないことには安心できない。
「シルビア? そこにいるの?」
 気づけば、ドアが少し開き、マリスの声が聞こえていた。
 どうやら、部屋へ入るか迷っている間にドアノブを握る手が強くなっていたようだ。
「……お母さん。そう、私。今、帰ってきたところだから、お母さんの調子はどうかと 思って、ちょっと除きにきたんだ」
 シルビアはとっさに、笑みを作っていた。
「こっちにいらっしゃい。丁度、よかった。話したいことがあったの」
 普段とは違う返答に戸惑いながらも、シルビアは頷き、マリスの傍に寄った。
 どんなにやつれても、マリスのしっかりとまとめられた黒髪は清潔感をかもし出してい たが、近くで見る顔は青白く、頬のコケが一層目だって痛々しかった。
「何? 話って」
 マリスは光が僅かに宿った瞳をシルビアに向け、話し始めた。
「シルビア。あなたがみても分かるとおり、ここに越してきても私の症状は良くならな い。悪くなっている。最近では、私はもっと前に死んでたんじゃないかと思ってるの」
「……お母さん、何を言いだすの? まるで、もう死ぬみたいなこと」
「死ぬわ」
 シルビアは聞きたくなかった言葉を耳にし、マリスから目を背けた。
「……」
「生きている者はいつかは死ぬ。自分の体だもの、自分自身が一番よく分かるの」
「お母さん……。そんなこと言わないで」
「ただ、気がかりなのがシルビア、あなたよ。もっと、もっと心を強く持って欲しいの。 そして、感謝しているのよ。シルビアがずっと側に居てくれたから、生きていること が幸せだって思えた」
 そう言い、シルビアを病人とは思えないほど力強く抱きしめた。
 お母さんの前では、泣くのは止そう。
 悲しませてしまうから。
 そう思っていたのに、シルビアの茶色い瞳から水滴がポタポタと落ちていく。
「シルビア。あなたはどんなことがあっても生きるの! 死ぬことは消えてなくなること ではないわ。シルビアが思ってくれれば、心の中で生きつづけるの。それだけは覚えて おいて」
 シルビアを抱きしめていた腕の力が弱まり、マリスはシルビアを見て穏やかに微笑む。
 それに対し、シルビアも微笑むが涙が尽きることはなかった。
 何と答えたらいいのか分からなからない。
 いつかはマリスの口から聞く事になるだろう。
 そう覚悟をしていたはずなのに、マリスがこの世から消え去ってしまうことなどやはり 理解できなかった。

 しばらくは、二人とも黙ったままだったが、ドアをノックする音でその沈黙は破られた。
 ドアを開き、使用人のラリマンは淡々とした口調で言う。
「奥様。シルビア様。食事の準備が整いましたので居間にお越しください」
「分かったわ。ありがとう」
 マリスの返事を聞くと、ラリマンは去っていった。
「お母さん? 今日は居間で食事を取るの?」
 涙は乾き、いつもと同じ調子でシルビアは聞く。
「ええ、そうよ。どうして?」
「どうしてって……。最近は自分の部屋で食事を取ることが多かったから」
「そうね。でも、今日はクロードが帰ってくるし、久々に家族揃って食事を取りたいと 思って」
「そうだった。じゃあ、私は服を着替えてから行くから、お母さんは先に行っててね」
 そう言い、シルビアは、急ぐようにしてマリスの部屋から出ていった。
 シルビアは自分の部屋に向かいながら、マリスの部屋を出る寸前に言われたことを思い 出していた。
「今、話したことはクロードには秘密にしておいて」
「どうして?」
「クロードはシルビアよりも落胆が激しいと思うから」

  ――

 一階、居間。
 四方の壁には、部屋全体を照らし出すようにランプが取り付けられている。
 三人で使うには少し大きいテーブルの中央にもランプが一つ。このランプはそれを囲む ように並べられた様々な料理を、色鮮やかに映し出していた。
 一週間ぶりといっても、クロードとは久しぶりの再会だからだろうか、マリスは表情が とても明るい。さっきまでは青白かった頬にも、少し赤みが増して見えた。
 シルビアは先ほどのマリスとの会話が頭の中を駆け巡っていたが、マリスとの約束を思 い出し、顔には表さないようにしていた。
「シルビア?」
 自分の方をニコニコとして見ていたシルビアを不快に感じたのかマリスが言う。
 名前を呼ばれてシルビアが我に返ると、目の前にあったパンが大分減っていた。どうやら、 パンばかり食べていたようだ。
「はははっ。まったく心配性だなシルビアは。マリスのことを考えてたんだろ?」
 馬鹿にしたようにクロードは言う。
「ち、違うよ。お母さんがとても元気よさそうで嬉しくって」
「そんな事を言っても無駄だぞ。シルビアは心配性だからな」
「お父さんだって」
「何を言っているの? 皆して。そんな簡単に私は死なないわよ」
 マリスが呆れたように口を挟んできた。
 マリスに合わせて、シルビアも言う。
「そうだよ。医者にも、いつまで生きられるかと言われたのにこうやって、今生きている んだよ」
「そうだな。今だって、こんなに食欲があるんだ。きっと、マリスのほうが私より長生き をする」
 クロードはマリスの平らげた野菜スープを見ながら、頷くように顎鬚を擦りながら言った。
「ふふふっ。そうかもしれないわね」
マリスが肩を揺するように笑い、それにつられるようにクロードも笑った。
 シルビアもわらう!?
 シルビアも笑おうとするが、喉に何かがつっかえているようでうまく笑えない。マリスの 部屋を訪れる前と同じような感じを憶えた。
 辺りに白いふわふわとしたものが漂っているように見える。空気が濁っているようだ。
 けむり?
「お父さん、お母さん、この部屋、煙で……」
 シルビアは声に出して言ったつもりだったが声になっていなかった。
 視界が曇っていくと同時に、皆の笑い声が少しづつ薄れていく。
 シルビアは不安になり、席を立つ。マリスとクロードの座っている席に向かった。マリス たちのいる所までは数歩の距離だというのに、なかなか辿り着かない。霞んでいた辺りが闇 に包まれ一層、視界が悪くなる。手探りでテーブルや椅子を探してみても、何も手に触れる ものはない。
 暗闇の中を一人取り残されたという恐怖が、シルビアの足を竦ませたが、何かに押される ように歩き出した。シルビアの前に、一点の黄色い光が見えたのだ。
 近寄ると、それは今にも消えそうな炎を揺らめかしたランプだった。
 ランプを手に取り、辺りを見渡すと、シルビアの瞳にクロードの姿が映った。
 シルビアはクロードに声を掛けようとしたが、険しさと驚きが混ざったような表情を遠く に向け、クロードは倒れこんでしまう。それと同時に、シルビアの顔に数滴、水のようなも のが掛かった。手で顔を拭うと、水のようなものはぬるぬるとしていた。嫌な感覚が頭の中を駆け巡る。
 シルビアはクロードに駆け寄った。その姿は胸に矢が刺さり、服は血で滲んでいた。
 クロードは力のない声で何度も言う。
「シルビア、逃げなさい」
 その声は次第に、マリスの声と重なっていく。
 一瞬の出来事でシルビアは声が出なかった。何が起きたのかまったく理解できない。
 しかし、自分の心に詰まった何かを解放しなければならないような、そんな感覚にシル ビアは襲われた。
 突然、シルビアを取り囲むように、炎が舞い上がった。さっき、手にしたランプが手元 にないことに気づく。炎から出る煙で、これまで以上の息苦しさを感じ、シルビアはその 場にしゃがみこんでしまう。
 必死で呼吸をしようとして、咽た。
「ゴホッゴホッ……」
 その瞬間だった。
 シルビアは頭の中でずっともやもやとしていたものが、急速に晴れるのを感じた。