グレイズ ラビリンス
ⅱ 闇の囁き~ミラ・グレイ

バンバンバンッーーカチッ


「チッ……」
女は物影に隠れ、舌打ちをした。
手にした銃の弾倉を確認する。
今日に限って、リボルバーおいて来るなんて……。
ウォー……
銃を投げ捨てたと同時だった。
人ならざるものの叫びと視界を影で覆われたのは。
目前の男は無表情のまま、精気のない瞳を向けた。
「!グッ……」
ギリリと首に当てられた手に力を込められ、女の顔が歪む。
ポタリッ
男の服に何箇所か見られる赤い染みから血が滴り落ちている。
これだけ当たっていれば……。
「ウォ……ウォルトさん。 聞こえてるんでしょ? 」
ウォルトと呼ばれた男は声に反応するかのように、小刻みに震えだす。
「あなたの奥さんや子供さん、家で待ってる。クッ帰ってあげなくていいの? 」
「ア……ルダ……」
女から手を離したウォルトは後退りするように頭を抱えて、蹲る。
「アルダが待ってるわけ……ない」
女はその言葉を耳にするなり、自分の首をさすっていた手を止め、つきたい溜息を飲み込むように、ウォルトへ目を向けた。
「いいえ、待ってる。奥さん、泣いてあなたを助けてくれって私に頼んできたの。失業が何? 命あってこそじゃないの? 」
「アルダーー」
精気のないウォルトの瞳から、一粒、涙が零れた。
「少し痛むけど、我慢して」
女はウォルトの前に立つと、肩に手を置く。
「Agnus De……」
突如、ウォルトの手が女の腕を掴む。
「はっーー禍々しきお……前が神の詩を口ずさ……むか? 」
彼の声ではない、低音が響いた。
「!っグゥッ…… 」
女はそれを鼻で笑うと、"やつ"ではないと分かっていながらも掴んでいたウォルトの肩に少し、力を入れた。

Agnus Dei, qui tollis peccata mundi:
dona eis requiem.

この世の罪を取り除く神の小羊よ
彼らに安息をお与えください

Agnus Dei, qui tollis peccata mundi:
dona eis requiem.

この世の罪を取り除く神の小羊よ
彼らに安息をお与えください

Agnus Dei, qui tollis peccata mundi:
dona eis requiem sempiternam.

この世の罪を取り除く神の小羊よ
彼らに永久の安息をお与えください

女が言葉を言い終えると同時に、男の掴んだ腕が緩み、男はバタリと倒れた。
「ウォルトさんー」
女の確信に満ちた声が響く。
倒れた男は上体を起こすと、右手で乱れた自身の髪をクシャリと掴む。
男は状況が飲み込めないのか、焦点の合わない目でしばらく前を見据えた後、ハッとしたように辺りを見回し、声のした方に頭を向けた。
「僕は……あっあ……何て、ことをーーうっ! 」
「落ち着きなさい。 傷口が広がる」
そう言って、女は自身の人差し指を歯で傷つけると、もう片方の掌に血の円陣を書き出す。
その光景を苦痛に顔を歪めながら見ていたウォルトの腹部に無言のまま女が手をかざすと、掌から青白い光が放たれ、やがて痛みが引いて行ったことにウォルトは驚きを隠せない顔で女を見つめた。
「驚くのも当然ね。 でも、普通では考えられないことを身をもって経験したばかりでしょ? 」
痛みが引いたことで上手く回りだした頭が現状を把握すべくウォルトの口が開く。
「これ……は、どういう。ぼ、僕は……」
「簡単に言えば迷信、噂、伝説。 難しく言えば人の闇につけ込んだ悪魔の囁きってとこね」
「それって……」
開いた口が閉まらないウォルトを他所に、女はクスリと笑みをこぼした。
「深く考えなくていいわ。 人は闇に囚われやすい。どんなきっかけであれ、闇を知れば、深く、もっと知りたい衝動を抑えられなくなる。 忘れることね」
女はさっき呟いたような聞いたことのない言葉を並べ立て、ウォルトの目前で右手の指をパチンッと鳴らした。
女の指の音と共にウォルトはさっきとは違う霞みがかったい瞳を女に向ける。
「さぁ、ウォルトさん。 帰って奥さんの元へ。 心配しているわ」
ゆっくりと立ち上がったウォルトはそのまま女に背を向け、壊れた扉から出て行った。



「グレイ警部! 」
しばらくして、息を切らした若い男が女の名を呼んだ。
「遅いーー」
女の呟きに若い男は困った顔を向けるが背しか見えない女からは表情が読み取れない。
だが、いつものことだと思った若い男は要件を伝えるべく再び口を開いた。
「ついさっき連絡が入ったんです。失踪してたウォルト・タナー氏。無事、見つかったそうです」
「そうーー」
「死体で見つからなくて、本当に良かったですよ。また、連続首吊り事件の被害者が出たって騒ぎ立てられるところでした」
ずっと背を向けていた女ーーグレイ警部こと、ミラ・グレイは血の滲む腹部をコートで隠すと、振り返った。
「ワイルデン警部補。 もう、騒ぎ立てられることもないわね」
少し額に滲む汗を誤魔化すように真っ直ぐと見据えたミラの瞳は日の下り始めた室内で金色に輝いているようだった。
その光景にあっッと息を呑むワイルデンを他所にミラはワイルデンの横をすり抜けていく。
「迎えに来たのに置いてかないでくださよ〜」
一足遅れ、ワイルデンは遠のくミラの背を追った。


いつでも闇は私たちの隙を探している。
いつでも闇は私たちの傍にいる。

――”闇の囁き”