グレイズ ラビリンス
ⅳ 夢の味~ミラ・グレイ

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ポタリッ
ポタリッ
と天上を伝った水滴が落ち、波紋を作った。
広がる波紋は外へと向かう程、光を強くし、水面の淵に届く前に消えた。
「まだだーー」
その光景を前に誰に言うでもなく声を発すると、男はフードを深く被り直した。





「あっーー」
手から滑り落ちた小瓶を目で追えば、コツッという音と共に誰かの足元の前で止まった。小瓶の触れた年季の入った茶色い革靴から目線を上げれば少し眉間にシワを寄せた男と目があう。
「主任……」
「いないと思ったら、こんな所でコソコソとーー」
落ちた小瓶を手にミラへと近づく主任ことデイヴィッド?クラークへ傷を隠すように脱ぎ捨てたコートを持ち、ミラは立ち上がった。
「ワイルデン警部補から話は聞いたが、大筋だけだった。大概、君が単独行動でもしたのだろう。彼は本当にいい部下のようだね」
目が据わったままの笑顔を向けられ、少しドキリとしたが、ミラは冷静さを装った。
「ええ、彼は本当に優秀で助かります。連続失踪事件については私なりの考察を含め、後程、報告に上る所でした。ただ、捜査中に大分ホコリを被ったので落としてからと……。他言できない話もありますので、その後、主任室に伺わせて頂きます」
ミラは苦し紛れに答えるなり、デイビッドから離れようと数歩進むが掴まれた腕にそれ以上、進みことができなかった。
「待ちなさい!」
デイビッドの少し怒りの感情のこもった声に、振り返れば、眉間のシワを深くした顔がミラに向けられていた。
「ディアカリスーー治癒魔法薬だな。これは」
何も答えないミラにデイビッドは語気を強めた。
「ミラ! 何故君はいつも自分を犠牲にする? これでは兄に申し訳がたたない。冥界に行ったら何と言われるか。見せなさい!」
言うなり、ミラの手からコートは払われ、脇腹部のシャツの血の滲みが露わになる。
「なっ!?」
一瞬の事にミラは追いつけず、シャツをコートで隠すことも忘れ、呆然とデイビッドを見つめた。
デイビッドの整えられた髭が口と共にワナワナと小刻みに震えるのが見て取れた。
声を発しないデイビッドにミラも自身の傷にシャツを少し持ち上げ、目を向ける。
あーーこれは酷い……。
弾丸は貫通しているがそれ故に血が止まる事を知らないように出続けている。
だからかさっきから立ってられるのがやっとな感じがしてたなと自分のことながら、他人事のように思った。
途端、ピシャリッと傷口に冷たい感触を感じた。かけられた液体は傷部に沿るように白く発光し、急激にに傷を修復していく。
「あっーーがっ!」
ミラは歯を食い縛るように、言葉にならない声を上げ、前のめりに体を沿った。
染みる痛さではない、急激に細胞が修復していく痛さは尋常ではないのだ。
デイビッドは空になった小瓶の蓋をすると、ミラの持っていたコートのポケットに入れた。
「痛いだろう? なら、傷を負わないようにしなさい!」
「気を……つけます」
分かりましたとは決して言わないミラに深くため息をしつつも、心配の眼差しをデイビッドは向けたままだった。
その眼差しはどこか父のものに似ていて、やはり兄弟なのだとミラは思った。
「ツテネ・タハーナン・メヤラー」
「デイビッドおじさん!」
傷のあった場所に手をかざすデイビッドに目を見開き、はっとして咄嗟におじと読んだミラに少し汗ばんだ額を拭い、笑顔を見せるデイビッド。
「これだけ痛い思いをして傷を治しても、痛みはしばらく続くのだろう? 少しは楽になればいい。今日はもう帰りなさい。報告は明日聞く。こちらから伝えたいこともあるしね」
そう言ったデイビッドは軽くミラの頭に手を乗せると背を向け、去っていった。
デイビッド・クラークはミラのおじで、父方の弟にあたる。元々、父の家系は魔力持ちで、家のもの以外に知られることなく受け継いできた。だが、彼は魔力をさほど持っていない。その代わりと言っても過言ではないように、世代を追うごとに薄れていった魔力を父は最強とも謳われた先代と同等の強さを持って生まれた。
そんな父は既にこの世にいない。そして、母も。
私の家族はもうおじだけなのだ。体に病を持った叔父が、しかも弱い魔力を使うことは体への負荷が計り知れない。
自分自身が無茶した事が原因であることは確かだが、私は父の魔力を受け継いで自慢じゃないけど強い。それを叔父が知らないわけでもない。だから、どうして叔父が命を削るような事をするのかミラには理解出来なかった。
「おじさん、どうして…………」
ミラの微かな声は空気に溶けるように消えていった。


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「ーーという事です。」
ミラは一通り報告を終えると目前の机上に置かれた“主任:デイビッド・クラーク”と書かれた席札から、額に両手を預け、俯いたままのクラークへと視線を移した。
「ワイルデン警部補の話とも合致する。話の不備はなさそうだね。で、グレイ警部、君の見解は?」
上司であるデイビッドはミラの叔父でもあるため、ミラの持つ能力についても大方、理解している。だから、魔を制した事まではミラは話していた。
「連続首吊り事件の犯人は“バク”かとーー」
「悪夢を餌とするあのバクか? 」
ミラの言葉に漸く顔を上げたデイビッドの表情はいつもと変わらない。
特殊捜査課においてこういった事件は当たり前だった。実際に信じて務めてる者がどれだけいるかは不明だが。
「ええ。人を小馬鹿にする喋り、消える寸前に見えた特有の模様と動物臭ーー」
「バクは悪夢を喰らうだけで、寧ろ人間にとっては良い存在ではないのかな?」
バクーー東洋に伝わる伝説の生物。夢を喰らうから未来(夢)を喰われるとも言われているが、実際は悪夢を好物とし、未来を喰う事はない。だから、寧ろ人間にとっては歓迎されるべき生物であって、恐れられる存在ではない。
まぁ、口が悪いのが難点だが……。
「普通のバクならそうですが、今回のバグは悪夢を増殖させる事を自らがしています。何かが関与しているようにしか思えません。」
ミラの言葉にデイビッドは眉を一瞬、潜めたが、机上にあった報告書にサインをすると、“済”と書かれた隅の仕分けスペースへと放り投げた。
「一連の犯人といえるバクはもういない。一応、様子見となるが、昨日のウォルト・タナー氏の失踪事件については解決したと言える。ご苦労だった」
「はい……では、失礼します」
ワイルデンの報告では負に落ちないというから全てではないが詳しく話したのになんとも呆気ない終わりにミラは肩透かしした気分になった。
今回の件は人の命さえ奪っている。何があのバクを変えてしまったのか少し詮索してみようかと思いながら、主任室のドアノブに手をかけたところで後ろから声がかかった。
「ミラ、この件は終わりだ。これ以上、頭を突っ込むな。それとーー」
ミラはあとに続いた言葉に溜息をつきつつ、今度こそドアノブを回した。


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廃屋の壊れた窓の隙間からは昨日と同じように沈みかけた太陽の木漏れ日が地面を赤く染めていた。違うのは赤色の中で色黒く浮かぶ影のようなシミのみ。それは何かの形を模しているのでもなく、どちらかといえば円に近い。ただそこが目立って見えるのは、人の赤ん坊程の大きさがあったからだろう。
ミラは迷う事なくシミの前まで行くと、片手に持っていた白いバラを顔に近づけ、花弁に唇を合わせれば、シミへと献花した。
シミを吸い込むように、真っ白だったバラの花は徐々に黒へと変わる。枝まで全て黒に染め上げると、弾けるように粉々に散った。その数秒後、無数のバラだったものは青白い輝きを帯びながら、あるものを立体的に形取っていった。
「「禍々しきーー」」
ザシュザシュと少し重い足取りの音と共に唐突に低い声が響く。
光が消えると前方の光景は様変わりしていた。
光のあった所には硬く目を瞑り横たわったまま微動だにしないバク。
そして、その周りをぐるぐると回り続ける2匹のバクの姿にミラはただ悲しみの目を向けるしかなかった。
バクとはとても純粋な生き物だ。純粋故に言霊によって汚れを払う。口が悪いのもそれ故、それしか身を守る術がないのだ。悪夢を好物とするというが有名であるが、この好物の食べ過ぎによる中毒を起こすことがある。症状は悪夢の人への誘導と食欲の増加、精神はその欲に囚われる。まさに、今回の事件の通り。だが、バクの食べ過ぎは普通に過ごす過程では起こり得ない。元々、バクは腹8分目までしか食べることが出来ない。それ以上、摂取した場合、吐き出してしまうのだから。
「「禍々しきお前によって此奴を見送る羽目になった。放っておけば、よいものをーー。欲のままにこの世を彷徨い続けるのもまた一興というもの」」
2匹のバクは歩む足を止めず、どちらか共なく低い声を震わせた。その間も4つの目がジッとミラへと向けられている。
人にとっても幻獣と呼ばれるものにとっても、死もなく、意思もなく、この世という檻に閉じ込められたままなど苦痛や恐怖という言葉では言い表せないものだ。
バクの言葉をすんなり受け取ってはいけない。
本当に彼らと話をするのは疲れる。
「礼など無用よーー」
ミラが端的に答えれば、バク達はフンッと鼻で笑った。
「禍々しき汚れた血の者よ。覚えておくがいい。闇に深入りすれば足元をすくわれるーー」
歩みを止め、ミラへと向け続けていた視線を横たわる仲間へと向けたバク達はその言葉を残し、忽然と消えた。
「足元を……か」
シミが消え、元々の荒れていたものへと変わった地面を前にミラは下ろしたままの手を力の限り握りしめた。

バクは現れるたびに私へ「お前の夢は喰えん」とケチをつけ、決して喰べることはなかった。
私の見る悪夢は他の人ほどの物ではないというのか? それとも、余りにも悪夢の度が過ぎるというのだろうか?
こんな状態に追い込んでおいて、闇に深入りするななどよく言えた物ね。
手を差し伸べてくれないのなら、自分で解決するしかないのだから。
私の夢は一体、どんな味がするのだろう。
バクの舌があるのなら……知り得る物なら知りたい。

私の“夢の味”をーー。
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